いつか愛せる

DVのその後のことなど

義母の転院

 入院から1ヶ月を過ぎて義母の具合が少し好転し、1日に1時間程度のリハビリが始まった。脱げにくいサンダルがいるので、オフィス用サンダルを買う。ただこのサンダルはほとんど履いてもらえなかった。指が当たって痛いという。

 退院後も含めて義母にはいくつかのサンダルを買ったが、やわらかい素材を選んでもほとんどが「合わない」とのこと。当時は「そんなにこだわるの?」と思ったが、自分もだんだん歳をとってわかった。肉体の柔軟性が失われるから、合わないものが増えるのだと。私も今では楽に歩ける靴を探すのに苦労している。

 このころ義母に「ハサミを借りてきてほしい」と言われ、看護師さんに工作用のハサミを借りて渡した。すると義母は邪魔にならないよう束ねていた自分の髪を、そのままジャキジャキっと切ってしまった。ほとんど洗髪できないので切りたかったらしい。義母の闘病生活への覚悟のようなものを感じた。

 

 病院はずっと居られるわけではなく、基本的には3ヶ月で出される。義母には「リハビリ病院」への転院をすすめられた。実家の近くの病院に入ってほしい思いもあったが、リハビリに特化した病院の方が早く回復できるだろう。

 転院するためには一度あちらの病院で診察、というより面接をうける。もちろん平日の昼間だ。事前の書類の提出は家族でOKだが、診察は本人を連れて行かなくてはならない。初めて介護タクシーを利用した。

 かなり高額だが頼んでよかった。病室からの移動も車の乗り降りも任せられるし、車椅子やストレッチャーを固定できる車で行きも帰りも向かえに来てくれる。不慣れな私たちが普通のタクシーで連れて行くのは無理だったろう。その後、介護タクシーには何度もお世話になった。

 そして付き添う家族がひとりだと厳しいことも知った。ひとりが車椅子の操作を含め本人にかかり切りになる。もうひとりが受付対応や書類の記入をしたり、目的の窓口やトイレがどこにあるか探したりする。ふたり居ないと本人をひとりにするタイミングが出来たり、余計な時間がかかってしまう。

 そのリハビリ病院の面接担当さんは「うちは厳しいですよ」と言った。本人にやる気がなければ受け入れないらしいが、義母なら大丈夫だろう。「ここを退院するときにはどうなっていたいですか?」という質問に「自分でお味噌汁を作れるようになりたい」と言って認められた。それが具体的な目標として設定されたらしい。その時の義母は歩くことも出来ず、自力で排泄できず尿カテーテルを付けた状態だった。

 

 この転院は大成功だったと言える。家族とも丁寧な面談をしてくれる病院で安心できた。ただやはり不便な場所にある。緑に囲まれた好環境ゆえ、バスでしか行けない。そのバスもやたら本数が少ない。

 私たちはお見舞いの前後は必ず義父の所に寄るため、時間も労力もかけられない。やはりタクシーで通うことになった。タクシー代にいったいいくら使っただろう。私は平日もひとりで頻繁にお見舞いに通う夫が、いろいろな意味で心配だった。

 ただ義母にとっては、すべての時間を自分のために使い周囲の人が自分のために動いてくれる、貴重な経験だったのではないか。ずっと家族に尽くし続けてきた人だ。リハビリは体を動かすのみならず、手先を使う塗り絵や手芸もあり大変ながらも楽しそうだった。母の励みにしてもらおうと、愛猫ノンちゃんの写真を病室に飾った。猫好きだと認識されて手芸のデザインを猫にしてくれたりしたらいい。