いつか愛せる

DVのその後のことなど

クリスチャンとDVと離婚

 私がDVを経ても離婚せず夫婦の再構築をしたため「この人に出来たことが自分には出来ない」と自身を責めてしまう人がいると知った。特にクリスチャンは離婚回避に努めるのでその傾向が強い。

 でも声を大にして言いたい。私は優れていないし離婚した人が劣っているのでもない。努力の度合いすら意味があったかどうかわからない。関係の再構築は一方の努力だけでは出来ないものだから。相手にも関係を変える意志と行動がなければ成し得ない。

 そして相手の意志を変えることは本人と神様以外の誰にも出来ない。こちらに出来るのは精々きっかけを作ること。きっかけのひとつがこちらの変化だったり離れることだったりする。触発されて相手も変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。だから私は運が良かっただけ。

 掲示板で大勢の当事者とやり取りしていたころ、クリスチャンの当事者とも何人か出会った。彼女たちは当然ながら通っている教会の神父さんや牧師さんにDVについて相談していた。知恵のある助言をもらった人もいるし、ある女性はこう言われたそうだ。

「もう自分のことなんてどうでもいいじゃないですか」

この素っ頓狂に聞こえる言葉は、クリスチャンなら何となく理解できると思う。恐らく、夫に何をされても反抗せず神様と夫に身を委ねて信仰に生きろ、というような意味だろう。ずっと相談にのっていて万策尽きてそんな発言になったのかも知れない。

 でも、そんなことを実行できる人はほとんど居ないのではと思う。夫婦だけの問題でなく彼女にはお子さんもいる。彼女が「黙って殴られていろとおっしゃるのですか」と聞くと「そうです!」と言われたそうだ。私はまだ怒りが抜けきっていない時期だったからか、その牧師さんの胸ぐらをつかんで詰め寄りたい衝動にかられた。「彼女が殺されたらどうするんだ!」と思った。

 

(この先には説明のため暴力の描写が入るので、読むことに不安のある被害当事者の方は、この先の20行分程度は読み飛ばすことをお勧めします)

 

 殴られるということは、気軽なことではない。DVで鼻の骨や肋骨を折られた話をネットでいくつも読んだし、私も一度だけ危険な経験をしたことがある。ある時、私は顔や肋骨を必死にガードしたため、頭を殴られた。頭蓋骨は硬いからコブだけで済むと考えたのだが、夫が格闘技経験者ゆえか、手加減したところでそんな簡単にすまなかった。翌日私に異変が起きた。

 なぜか思うように言葉が出ない。話そうとする言葉を思い出せなかったり間違えたりする。歩いているときに見えた「煙突」を指差しながら、口から出たのは「鉛筆」だったりした。自分の頭がどうなったのか恐ろしかった。幸い数日で完全に治ったし、それはボクサーが一時的にパンチドランカーになるのと同じだったと知った。人間の肉体は意外に脆いし、肉体だけでなく精神への暴力も人を殺しかねない本当に危険なものだ。

 クリスチャンの女性が夫に殺された実話を本で読んだこともある。夫が視覚障害者で逃げようと思えばいつでも逃げられたのに、その女性は全身痣だらけになるまで殴られ亡くなった。前述の牧師さんが言った通りに生きたと言える。それでどうなったか。その夫はいつかパウロのように目が開かれてすごい信仰者になるのだろうか。裁判で「被害者はマゾの共依存症者だった」とされたことから、その時点では悔い改めていないことが明白だ。

 あまりに辛い日常が続くと「いっそ殺されたい」と思うことは想像できる。私もそう思ったことがあるし、クリスチャンは自殺を選択できないから。それを本人の嗜好であるかのようにマゾと決めつけた法曹界に、私は絶望する。立派な信仰者でもない私にはどうにもやりきれない事件。誰か彼女を逃がしてあげてほしかったと思ってしまう。

 正しいかどうかわからない、ただただ私の個人的な意見を書く。聖書には「離婚を憎む」と書かれているし、しないで済むならそれは幸い。でも聖書に書かれているすべての戒めは、神様が人間を幸せにするために与えた知恵。だから離婚しないことが目標ではなく、あなたが幸せになるのが目的のはず。一緒にいることでどうしても不幸になるなら、離れて良いと私は思う。離婚だけを理由に見放すような神様のはずがない。

 もし離婚したクリスチャンが神様に対して「ごめんなさい」と思っているなら、以降の人生で神様に「ありがとう」を言い続けることできっと挽回できる。誰を恨むこともなく生き、最後に「幸せな人生でした」と言えることが神様を喜ばせると私は思う。