いつか愛せる

DVのその後のことなど

力と責任

 私にも誰かを傷つける可能性は常にあるが、夫と私で確実に違う点がある。それは肉体的な攻撃力だ。彼は細身で強そうには見えないが格闘技を好み、詳しい人ならすぐ経験者だとわかる特徴が手足にある。夫がアル中だったころ「悔しかったらお前も鍛えろ」「俺なら絶対相手より強くなろうとする」と言われた。元々の資質と長年の蓄積があるのに、私にどう追い越せというのか。もし格闘技を習って少しだけ力をつければ、喜んで練習相手にされるだろう。私にとってやぶ蛇でしかない。

 力は腕力に限らないし生きるのに必須でもない。後に夫が私を認める際に腕力は不要だった。「私はあなたと対等な人間だ」と冷静に主張することを必死に貫いただけなので、攻撃になるような力は使っていない。覚悟を決めて支配されるのをやめた時から、夫にとって私は人間に昇格したと思う。

 力の種類にかかわらず、圧倒的に差がある者同士のいさかいは喧嘩ではなく支配と被支配だ。「夫婦なら仲直りできる喧嘩をしなさい」と言われたことがあるが、喧嘩ではないので仲直りもない。仮に夫が腕力を使わなくても、昔の我が家では対等な口論も成り立たなかった。夫の方が声が大きく脅しもうまかったからだ。

 もし明確に力の劣る相手と喧嘩するなら、自分に有利な力を封印しなくてはならない。力は使わず、使うと匂わせる脅しもしない。信用されて初めて喧嘩は成り立ち、おとな対子どもでもきちんと喧嘩できる。仲直り可能な喧嘩ができる関係とは、その信頼が成立しているか元々対等かのどちらかだ。

 私は喧嘩は元々好きではないしトラウマを刺激されそうなので遠慮したい。でももし夫婦喧嘩するなら、苦労するのは得意な力を全部封印しなくてはならない夫の方だ。夫婦も親子も上司と部下の関係も、力のある側に自分を制御する責任がある。一方に経済力がある関係なら、稼ぐ側が好きに使うのは無責任で、対等になるためコントロールする必要がある。対等にする責任が無いのは給与を支払う主従関係だが、主従関係でさえ人は横暴な主人から離れる権利を持つ。

 

 ところで腕力もお金も肩書きもない私には何の力もないから気が楽だ、と普段は思っている。それでも油断できない時はある。幼い子どもと接する時、あるいは私が馴染んだコミュニティに新しい人が入ってきたとき、私は相手に対して少しばかり力を持つ。状況によっては外国人やお年寄りや体の不自由な人と出会う場合もそうかも知れない。

 少し優位なだけでも相手は反論しにくい。あるいはこちらが間違いを伝えても正しいと信じさせてしまう。だから対等な人に接するより気を遣わないと、相手が子どもなら嫌われたり怖がられるし、おとななら去ってしまうだろう。

 そんなことを考えて気が付いた。私がDVの支援者を目指さなかったのは、支援者が力を持っているからでもあると。他人の人生を左右する可能性を持つ仕事だ。一部の支援者は自分の立場が持つ力を意識しない。例え対等になろうとしても、支援しながら力を放棄するのは不可能に思えるほど難しい。だから対等でいたい私は既存の支援者になりたくない。

 私は「責任感が強い」と言われたことがあるが、自分ではそう思わない。大きな責任は負担になるので力を持ちたくないし、私は私の立場の責任だけで十分だ。組織や国を動かす人の力はとてつもなく大きく、責任の大きさも権力に比例する。現実の政治家や警察や組織のトップの責任感が強いかどうかは別として、行使できる力に比例した責任を負うことは誰も疑わない。

 けれど個人対個人で力の差が小さいときに、人はマウントを取りたくなりその小さな責任を忘れ勝ちなのだと思う。

 

 つい先日の読書を思い出した。世界を操る闇の支配者

https://manaasami.hatenablog.com/entry/2022/09/24/160701

人類で最高の力を持っていると思えるディープ・ステート。彼らは一般市民を家畜としか思っていないから、責任なんて頭の片隅にもないだろう。最低最悪だ。ただあの本もメディアのひとつだから鵜呑みにはするまい。