いつか愛せる

DVのその後のことなど

共依存対策

 共依存から抜け出すチャレンジは20年前に書籍「いつ愛せる」↓に書いた。

https://www.amazon.co.jp/いつか愛せる―DV-ドメスティック・バイオレンス-共依存からの回復-あさみ-まな/dp/443414975X

けれど具体的なことをもう少し書いておきたい。共依存の意味は、今はたくさん情報があり簡単に調べられるので省略する。参考にしていただけると思う経験を書くが、共依存の解釈はあくまでも私個人のもの。

 

 まだまだ暴力に怯えながら回復の努力をしていたころのこと。私は夫の世話を焼きすぎていたので手を離す決意をした。自分のことは自分でしてもらおう。もちろん簡単ではなく、それがまた暴力を引き起こすかも知れない。あるいは夫が気にしなくても、生活上の不都合が起きる可能性は高い。

 さらに別の問題もあった。私の行動が本当に共依存克服につながるのかわからない。いくら本を読んでも日々の生活で起こるひとつひとつの疑問には答えてくれない。正しいことをして夫を怒らせるなら「前に進むためだ」と耐える甲斐もあるが、間違えた上に暴力を誘発させるのはごめんだ。

 例えば私は夫に自分で税金や保険の手続きをしてもらおうと考え、そこで迷う。これは正しいのか? 私は夫に「手続きをやらせよう」としているのだから、夫をコントロールすることではないか。他者をコントロールしたがるのは共依存症者の大きな特徴だ。これは夫から手を離すことなのか、それとも夫をコントロールすることか。同じ行為なのに意味はまったく逆だ。その判断ができない。

 ある日、ヒントになる印象的な出来事が起きた。ちょうど2000年ごろだったろうか。私は仕事に役立てようと思い切り、当時としては高性能のデスクトップパソコンを買った。夫は前から自分用のノートパソコンを持つネットオタクだから、教えてもらえると期待した。事実、私が2002年に自分のホームページを作れたのは夫のおかげだ。

 彼は私の新しいパソコンに興味津々で触りまくっていた。それはかまわない。ただ、

「デスクトップにファイルを置きっぱなしにして散らかすのはやめて」

と言っておいた。そういうことが何度かあったからだ。にもかかわらず、ある日またやられた。夫が夜通しパソコンに向かい寝落ちしたため、私が起床したときパソコンも起きていてデスクトップ画面が見えた。数えきれないほどのファイルがごちゃごちゃに放置されていた。

 朝に弱くボ~っとしていた私の頭に血がのぼる。散らかったファイルをいくつか開くと、意味不明な文字の羅列もあれば、アニメ画像もエロ画像もある。すごく腹が立った。「これは私のパソコンだ!」と叫びたくなった。ずっと私のすべてを搾取されたと感じていたので、テリトリーを無視されることがもう我慢ならなかった。夫を起こして怒りをぶつけたいが、起きないだろうし怖くてできない。

 パソコンでうけた仕打ちにはパソコンで返そう。私はパソコンに向き合った。ペイントソフトを立ち上げ、黄色い背景に大きく真っ赤な文字で、

「このパソコンは私の物です。勝手に散らかさないでください!」

と書き、壁紙として貼り付けた。夫が目覚めて起動すれば嫌でも目につくはずだ。今なら簡単な作業だが、まだ私がパソコンに不慣れだった当時。しかも時間のない平日の朝、よく出来たものだ。震える手と頭をフル稼働させ、夫へのメッセージを貼り付けたパソコンをシャットダウンし、身支度して職場に向かった。

 昼間は忘れていられたが、帰宅時には緊張した。でも怒りが残っていたおかげで堂々と帰ってこられた。普段通り「ただいま」と言って家に入る。夫はパソコンから離れてテレビを見ていた。私は荷物を置いて夕飯のしたくのため台所に向かう。そのときチラリとパソコンの画面が目に入った。デスクトップの壁紙は貼り替えられ、小さな文字で「すみません・・・」と書いてあるのが読めた。

 あ。解決した、と思った。私も夫もその件について互いに何も言わなかった。でも同じことは二度と起きなかった。

 

 この経験で何となくわかる。あのとき私は夫をコントロールするつもりは微塵もなく、ただ腹を立て感情によって動いた。夫を変える意図はないから共依存的ではない。だから良い結果になったのだと思った。長年感情を殺していた私には、久しぶりのストレートな情動による行為だった。

 もし「夫に約束を守らせよう」と計算したら、逆戻りしただろう。私のコントロール欲を夫は瞬時に察知し、逆に私を脅してコントロールし返したと思う。でも私は自分が絶対に嫌なことを正当に強く主張しただけだ。だから夫はそれに反応した。

 実はそのときはここまで分析できていない。ぼんやりだが成功体験として印象に残り、それから判断できるようになった。税金の手続きも夫に「やらせよう」とすれば反発されたろう。「私はやらない。自分でどうぞ」と伝えて放置すればいい。「やらない」のが私の意志だ。

 アサーティブ(assertive)に関する本で覚えた「主語を”私”にする」ことの意味も腑に落ちた。結果に繋がったのはすべて「私」の意志を伝えたときだ。「自分が使った電話代は自分で払うと約束してほしい」と言ったときも、「私が働いたお金で酒を買われるのは嫌だ」と宣言したときも、意志を伝えて結果は夫に委ねた。どう反応されるか非常に怖かったが覚悟した。万一夫の反応がまた暴力であるなら、私はそのとき新たな決断をして伝えればいい。

 主語を「私」にすると視点が変わり考え方が変わる。続けるうちに自分が何を望みどんな人間かわかってきた。それは自分を取り戻すことであるし新たに発見することでもあった。