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「当事者は嘘をつく」の書評への感想

 先日感想をUPした書籍「当事者は嘘をつく」の書評を見つけた。

 書き手のid:sakiya1989さんは研究者なのか、私には難しい文章だが興味があるので頑張って読んだ。「当事者は嘘をつく」を取り扱いが非常に難しい本だとおっしゃる。

素人にはなおさら難しいはずだが私は類似の問題の当事者に近い人間だ。意見を書かせていただこうと思った。

sakiya1989.hatenablog.co

 sakiya1989さん(以降”書き手”と記す)の疑問は『著者の経験は本当に〈性暴力〉と呼ばれるべきものなのだろうか』というもの。(以降、書き手の文章引用は青文字、小松原さんの書籍の引用は黒の太文字 

 ご自身もその疑問が「二次加害に該当するかもしれない」と心配される通り、きっと小松原さんはそのことで過去に随分悩まれたろう。(でもとっくに乗り越えられたろうと思う) 

アマゾンのカスタマーレビューにも、著者の性暴力という表現を批判するものがある。法曹界の人にがっかりしたことがあるが、ほかの人も頭硬いんだなあ、と思った。 

 小松原さんは「性犯罪」と「性暴力」の違いを説明しており、私にはすんなり飲み込める。「性暴力」は被害者の苦しみや悲しみに焦点を当てる語。「性犯罪」は刑法にあり証拠が無ければ成立しない。小松原さんは相手を犯罪者にすることには関心がないから「性犯罪」は語らない。

 

 書き手は「性行為に同意しているのになぜレイプというのか」で悩む。そして仮説を立て分析していかれる。私はそれを読むほどに「違うんじゃないかな」「なんかズレまくってる」と感じてしまう。 

どうしても刑法で犯罪を立証するために質問している人が思い浮かぶ。もし性犯罪にあって告訴するとこういう質問を浴びせられるのか、と想像して重い気持ちになる。

 

 そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう。

 

 私はここで<赦す>という言葉が出る意味がわからないし気になる。小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的にはしていないはずだ。 

 次に、書き手は小松原さんの自認のカテゴリーに言及する。彼女はカミングアウトに対し 

一部の人たちは私のことを「性暴力被害者」というカテゴリーを通してしか認識できなくなるかもしれません。それは私にとって居心地の悪いことです。

と書いた。私にはそれはよくわかる。被害にあったのは事実だが、私は私であって”被害者”という生き物ではないからだ。 

 これに対して書き手は、著者の自己規定(性暴力被害者)はそもそもカテゴリーミステイクではないかと感じる。その理由をまた仮定して分析される。

 

数多く削ぎ落とされたその描写は、大脳皮質の機能が抑制されて、ほとんど脳幹だけで動いている危機的な状況を示しているのではないか。

 

トラウマで苦しみながら書かれたろうけれど、被害の描写はご本人の説明の通り、小松原さんが意図して不要な部分をカットしたはずだ。恐らく、過去に性被害を伝える目的で書いたことを、性欲の隆起に利用された不快な経験をお持ちなのだろう。

 

しかし少なくともその出来事を〈性暴力〉と規定する際にはコンドームの着用有無の記述は必要ではないのだろうか。それともコンドームの着用有無については、著者が精神的に抑圧した、忘却の彼方にある記憶の中に含まれていて記述できなかったのだろうか。

 

忘却なのかわざと書かなかったかは不明だが・・・着用があれば性暴力ではないとおっしゃるつもりか。妊娠の不安を与えることは性暴力の必須要件なのか? であれば、男性や子どもへの性暴力は存在しないことになるが(冷静に書くつもりが怒りが出ちゃってすみません) 

書き手が真摯に分析を試みていらっしゃることは疑わないが、これはズレすぎだ。加えて言えば、当の行為が初体験であるかないかも、それが性暴力であるかないかには無関係。

 

『著者の体験した〈性暴力〉は単純に「暴力」であって「”性”暴力」ではないのではないか』『なぜここで殊更「性」が強調されねばならないのだろうか』『もし「"性"暴力」であるということを強調する場合には、性(セクシュアリティ)に関する問題がよりいっそう明確にされる必要があるのではないか』。だが、こうした疑問を数多く受忍してきたのは、著者自身に他ならないだろう。そしてこうして寄せられる疑問が、著者が自分は「嘘」をついているのではないかと考える要因になっているように思われる。

 

小松原さんの自認の通り性暴力だろう。性を理解できない子どもなら、その時点ではわからなくて多分おとなになってから自認する。でもおとなの女性が暴力と性暴力を取り違えることなど絶対ない。どちらが重いとか辛いという意味でなく、完全に異質だからだ。(暴力を伴う性暴力は多く存在すると思うが) 

そして私もその異質さの説明ができない。論理でなく体感しているからだ。その体感したものを言語化することを、脳が拒むような気がする。記憶は多分あるが詳細を思い出したくない。その記憶が正確かどうか確認する必要も感じない。 

私が小松原さんのように「自分が嘘をついている」という不安が無いのは、自身にも他者にも説明する必要がないからかも知れないと思った。

 

 以上。

多分、私は書き手の疑問への回答はちっとも提示できていないと思う。(とすると勝手に文句を言っているだけだ。申し訳ない)でも出来れば、なぜ書き手が途中で<赦し>に触れているのか知りたい。私の関心は本当は赦しにある。 

sakiya1989さんが気付いて読んでくださるといいな。今もまだブログの仕組みがよくわからない。どうやって繋げるんだろ?これ。