昨日の「当事者は嘘をつく」の書評への感想に対して、お返事をいただきました。こんなに早く丁寧に考察をいただいて、本当にうれしくかつ恐縮しています。
まず、id:sakiya1989さんご自身が「何か違う」と感じて性暴力について学んでいらしたと知りました。そこを叩くようなことをして申し訳ありませんでした。私は脊髄反射的に書いた部分があるのを自覚しながら載せてしまいました。
以下、読ませていただいて考えたこと。
「当事者は嘘をつく」に書かれている性暴力の描写は(意味があってそうなっているのだけれど)、多くの方にとって理解されにくいと納得した。アマゾンや他サイトの書評でも「読む人を選ぶ本」と書かれていたのはそういう意味かと。
じゃあ『「暴力」を伴わない「性暴力」って一体何だろう?』とも考える。パッと考えてもすぐには分からない。わからないけれども、そういう「性暴力」もあるかもしれない。こうやって論理で考えると、またどんどんズレていく可能性がある。「性暴力」に対する理解力の途方もないズレを自覚するやいなや、「性暴力」について私は読めないし書けないのだと知る。
確かに暴力を伴わない性暴力は少なそうな気がする。どういう事例になるだろう。
自分の経験からすぐ浮かんだのは「満員電車の中の痴漢」。満員電車では身動き出来ないから暴力で押さえつける必要がない。さらに恥ずかしさゆえ声を出せない女性が多く脅す必要もない。
他には「のぞき」や「盗撮」。その瞬間でなく被害が判明したとき性暴力を認識するから。一般的に軽く見られて性暴力と見做されなさそう。でものぞきは物理的な性暴力に移行する可能性を感じるし、盗撮は後日バラ撒かれる恐怖がプラスされる。とすると「ストーカー」は(性暴力に該当するのか不明だけど)この2つをあわせ持つ気がする。
リアルタイムでない性暴力という意味では、結婚詐欺など騙されて性関係を結んだ場合もそうかも知れない。偽りだと知ったとき、肯定的だった行為が搾取(限りなくレイプに近い)に変わる。金銭の搾取と違って回収も出来ず「損した」とか「騙された」という感情ではすまない。搾取という感覚は一般的に男性には想像しにくいのかなと思う。
思いついたのはこのくらいで、私も「何が性暴力か」はわかっていないと判明した。
Sakiya1989さんは哲学的に思考されるようなので素っ頓狂に思われそうだが、私が考えたことを書いてみる。
聖書では夫婦について「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」としている。(創世記2章24節)
「一体」には肉体も含まれる。伴侶以外に無理やり一時的に一体化され引き剥がされるのが性暴力かなと。ジグソーパズルのようにきれいな形で合わず、無理に押されたり一部を削られる痛み。痛むのは霊とか魂とか呼ばれる部分なのだと思う。
夫婦間でも性暴力はあるけれど。それは本来の形は合っているのに滅茶苦茶な向きに一体化させられるイメージだろうか。だから痛みは同じ。
ルソーのご案内と考察は、私が読み込んで理解するのに少々時間がかかりそう。でも感謝。(ベルサイユのばらにも名前が出てくるジャン・ジャック・ルソーだ!とテンションが上がった)
私が書評で用いた〈赦し〉(「そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう」という一文について)は、小松原さんが著書で用いた〈赦し〉の文脈とは噛み合わない、というご指摘かと思う。
実はそこまで考えず・・・性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに、なぜここで出たのかな? と気になって。
Sakiya1989さんが赦しについて何かお考えがあるなら読みたかった。正直にいうと「そこが聞きたいのに」という単純な私の希望です。
お忙しいとき悩んでいただくことでなく、もし考察される機会があればそのときに書いていただけたらうれしいです。
以上。
思い切って書いてみたら、今回ブログの使い方の一端がわかった。便利ですごいなあ。