DVから回復する時にDVサバイバー(survivor:生存者)という言葉を知り、当時の私は自分のアイデンティティにした。被害を受けたことでなく、生き抜いたことを指す肯定的なところがいい。自分の弱さが強さに変換されたような気がした。
ただ最近では「死にたいと思う人」や「自死した人」への配慮から、この名称は要注意でもあると聞く。
やがてそのサバイバーの自認を私は手放した。それは自然に起こったと言えるし、直接的には夫のひと言がきっかけだった。サイトを運営しDV情報ウォッチャーを続けていた私に、ある日夫が言った。
「DV、好きなの?」
あなたがそれを聞くのかとムッとした。でもそう思われても仕方ない生活だったし、夫はただ正直なだけだ。今なら「私はDVから回復する方法を探るのが好きなのだ」と言えるけれど、まだ自覚も曖昧でサイトもDV当事者を対象に作ったままだった。
そこで私はホームページを改造。記事を残してほしいという人もあったので、DVの話題は旧サイトとしてまとめた。2008年ごろのことだ。
ところが、サバイバーという自認を手放すと自分の中に空洞ができた。サイトを新しくしても何を書けばいいのかピンと来ない。結婚して旧姓を手放した時にも似ている。アイデンティティを失うとはこんな感覚なのか。
替わりに意識したのは自分がクリスチャンだったこと。作り直したホームページでもそれを明確にしたが、2013年には完全に更新を辞めた。クリスチャンを名乗らなくなった今も神様のことは大好きだが、それは世間で言うクリスチャンとイコールではない。
すでに私は私でありそれ以上探す必要が無くなった。自分の未熟さに悩みはしても自分が何者かで悩みはしない。失って困るような肩書きも思いつかない。
いずれ仕事は定年で失うが、職業は私にとってそれほど大きな要素ではない。何かを極めようとする一流の職業人を見て「素敵だな」「ちょっと羨ましいな」とは思うけれど。
多分、自分の両親を見送る際にまた自分の中の柱が消えるような喪失感を持つのだろう。親しくなれた夫の両親を見送った際にそんなことを思った。
そういえば、つくづく私には肩書きが無いと意識した。
過去に一度だけ、ミッション系の短大でお話をさせていただいたことがある。私の友人の恩師である先生が「いつか愛せる」を読み、お招きをいただいたからだ。
不慣れでフリートークが出来ない私は、読めば済むように原稿を準備した。DVの経験を交えて愛について考えるテーマにした。
その際いくら頭をひねっても、ペンネームの「あさみまな」以外に自分を紹介する言葉を思いつけなかった。まだクリスチャンを名乗っていた時期だが、ミッション系の学校でクリスチャンというのは間抜けに思える。
自分の属性を考えても、日本人女性やOLであることは肩書きにならない。内容に絡めて「DV経験者」というのも気に入らないし、一番使いたくないのが「被害者」だ。
学校からは特に求められなかったので何も出さなかった。当日の紹介はもちろん属性無しの「あさみまな」
後日、過去に講演された様々な経歴を持つ方々の講話と共に私の話も載った冊子をいただいた。見事に私だけ、名前の隣が空欄だ。もういっそこれが謎めいてカッコイイと開き直った。