いつか愛せる

DVのその後のことなど

謝罪の意味

 私はDVを経験してもたまたま夫と別れなかったので、謝罪をうける機会があった。何らかの被害をうけた人は通常は相手からの謝罪を望むが、その機会を持てない人も多い。ゆるしを考える前段階として謝罪について考えた。

 大抵の人は子どものころ「悪いことをしたら謝る」「謝られたらゆるす」と教わったはずだ。でもおとなは知っている。謝っても元には戻らないことがある。

 

 謝ってこない相手をゆるす必要はないという説を何度か聞いた。それも一般の人だけでなく、カウンセラーや聖職者からも同様に聞くことがある。

私はその説に賛成でも反対でもない。本当にゆるし難いことをゆるすときに、謝罪の有無はあまり関係がない。だからゆるすかゆるさないかは本人の意志だけで決めればいい。

 AさんとBさんの壊れた関係を改善するためなら謝罪は必要だ。でもAさんがBさんをゆるすことのみを考えるなら、双方向ではなく一方的。だから謝罪に左右されない。

 

 私は何年か間をおいて複数回、夫から謝罪をうけた。いつもさらりとした感じだった。内心うれしさより戸惑いが大きかったのは、私が謝られたら当然ゆるすべきと考えたからだと今になって思う。戸惑いながらも謝罪を受け入れたし、今ではとっくにゆるしている。

 けれど謝られてゆるしたのかと言えば、まったく違う。私は夫に謝られる前も謝られた後も、ゆるそうと努力を続けていた。つまり内面ではゆるせていなかった。あるいは癒やされていなかった。

 

 次に謝る側から見た謝罪の意味を考える。夫は自分に非があったと思ったから素直に謝罪したと思うし、その意義は大きい。

ただし夫の謝罪は私にゆるされる目的ではなかったと思う。自分の過ちを認識したからそれを表現した、という印象だった。ゆるされる目的でないなら夫の謝罪も一方的だと言える。だからいつも重々しい言い方にはならなかった。

 そしてそれで良かったと思う。幼い子どもの喧嘩とは違うのだから、ゆるされることを前提とした謝罪など暴力と同様で圧力しか感じない。

 私は夫に「ゆるす」と伝え、同時に「私もあなたを傷つけたことはあるはずだからそれをゆるしてほしい」と伝えた。そうすべきだと考えたからで、言いにくかったし深いところから発してはいない。いわば関係改善のための宣言。これで双方向になりふたりの関係性は一歩進んだ。

 

 ところが関係が進展しても、私個人はまだ苦しんでいた。残念ながら謝られても気はすまない。そんなことで大きすぎる傷は消えはしない。

なぜ謝罪では癒やされなかったのか。それは多分、夫が私のことをわかっているわけではないから。

私がどれほどの努力を否定され、ひとつひとつの暴力によってどんな痛みをうけ、何を感じて絶望し、それを何年も繰り返してきたか。私が心身にどんなダメージを彫み、それを抱え続けているかをわかっていない。

 

 20年も経ったのに、思い出しただけで「わかっていない」という言葉が止まらなくなり、いくつか消す羽目になった。トラウマ記憶の箱を少しだけ開けたからか。やっぱり回復しても記憶は残るなあ。

どれほどわかって欲しかったのだろうと当時の自分が気の毒になった。

 

(アレルギーでティッシュの山を作りながら書いた。長くなるので続きはまた後日)