いつか愛せる

DVのその後のことなど

引越しと保証人

 義母の退院で義実家が小康状態の時期に、たまたま私たちは引越した。同居のためでもなく前向きな理由ではない。住んでいた賃貸マンションの環境が悪化して、夫が耐えられなくなったから。(結構ドラマチックだったのでいずれ書こうと思う)

 

 元のマンションから徒歩数分の賃貸マンションに移った。準備や手続きは私がやる覚悟でも当日に夫の肉体が動けるのかかなり不安だった。無事に引っ越せて本当にホッとした。

 前のマンションに入る時に、義父に保証人になってもらったのを思い出す。でももう家業はやめたし、要介護状態で保証人は無理ではないか。

それに今回はマンションの契約者を私の名義にした。夫がずっと無収入だからだ。(私も低収入だけど借金は無いおかげか保証会社の審査は通った)

 保証人ではなく「連絡先」という名目だったが、私の父に頼んだ。家族の他に当てはない。こんな歳になっても、私たちはまだ自分の親に頼っているんだなあと思った。

 

 こういうことは義父母の入院の際にも感じた。大抵の病院の書類に、連絡先の他に保証人2人の名前を書く欄があった。おもに費用の取りっぱぐれを防ぐためだと思う。

義父の入院では義母の名前を書き、義母の入院では義父の名を書いた。後に一方が寝たきりになってもそうしていた。両親が居なくなったらどうするのだろうと漠然と思った。

 

 そして保証人の1人はそれで済むとして、もう1人をどうするか。夫は自分の名前も私の名前も「書くな」と言い張った。

自身が親に対して責任を持てる状態ではない。そしてもし夫が両親より先に死んだら、両親の責任が私に振りかかってしまう。だから書くなというのが夫の言い分だった。

 そんなことを考えるのも嫌だったが、現実は目の前にある。1人分だけ記入した紙を病院に持ち込み、受け入れてくれるかハラハラと待つ。保証人を2人書けない人は他にも多いのか、何とかそれで通った。

 

 引越したころは夫の体調が少し良くなりうれしかった。新居に義父母を招待したいけれどどうだろう。3階建てのマンションの3階の部屋で、エレベーターが無い。

それでも「遊びに来てください」と言うと義母は喜んでくれた。リハビリに新たな目標ができたようだ。ただ、私たちが腰を支えても義母が3階まで階段を上がれるようになるか。かなり無茶だとは思う。

 でも義母には向上心があった。現実を無視していると思えるほど、どこまで衰えても戻ることを諦めない人だった。そういう姿勢には救われる思いがした。

一方義父は何も考えずにニコニコしているように見えた。面倒で我が家に来たいとも思っていなかったろう。

 私の両親にも似た傾向があるのは偶然だろうか。家庭の中のことに対する責任感で「お父さんの面倒を見なければ」と、女性が強くなるのかも知れないと思った。