いつか愛せる

DVのその後のことなど

共依存の知識は介護の役にも立った

 義両親と過ごした最後の年末の記憶が無い。多分バタバタしていたんだろうな。辛うじて、ヘルパーさんに渡すお年賀の用意(お菓子の袋詰め)をしたことは覚えている。

 

 時期は思い出せないけれど、何度か夫に言われた。「手を抜け」「手を引け」と。

つまり私が義両親の介護で動き過ぎているから「休め」という意味。自分がほとんど動けない状態の夫がそう言うのだから、かなりの覚悟だったはず。

 私たちが何よりも避けなければいけないのは、介護破綻。それは経済的なことより先に私と夫の心身の健康。介護を背負いきれなくて無理心中した人の事件は他人事ではない。私はすでに疲れていたけれど、夫が半病人で私しか動けないのだから仕方ないと思っていた。

 

 そんな時私のヒントになったのは、何を隠そう共依存の知識。何とDVの経験がこんなところで役に立つとは・・・経験しておいて良かったとは言えないけど、でも言いたくなる。苦労が益に変化した!!

 

 さすがに義両親を突き放す気はない。そんなことは出来ない。でも自分の責任ではないと考えて一部荷を下ろすことにした。確かケアマネさんに電話したと思う。夫の実家に関わる頻度を減らしますと。当時の私は完全にキーパーソン扱いだったはず。

 前にも書いたけれど、ケアマネさんが作成する介護計画は当然ながら介護される人のため。家族の都合を無視とまでは言わないものの、誰かが要介護者のため動ける前提で作られている。仕事をしながら、且つ夫の不調のフォローもしながらそれをこなすのは、私の能力では不可能だった。

「やらない」のではなく「出来ない」という考え方を、私はDVから回復する際に身に着けていた。

考え方の切り替えはDVのころよりはずっと楽なはず。アルコール依存で放っておけば死ぬかもしれない、犯罪を犯すかも知れない夫から、手を離した(余計な世話はやめた)あの経験にくらべれば。実子である夫の意向に準じて、義両親のために動くことを一部制限するだけだから。

 

 電話したときのケアマネさんは戸惑っていたが、ケアマネにどう思われるかを気にしている場合ではない。私は要求されたことは完璧にやらなくてはと思い込む、生真面目な甘ちゃんだった。もっといい加減な家族はいくらでもいるだろう。事務的なことまで含めてこの人は動ける人だと思わせてしまったために、私は自分の首を絞めていた。

 迷惑をかけるという意味なら、私が倒れることの方が何倍も皆に迷惑をかける。倒れるものか! その前に休む。ケアマネやヘルパーさんにもっと頼ろう。

 

 私は同居ではなかったので切り替えやすかったと思う。同居していたらもっと引きずられて苦労したに違いない。

ただ、一度割り切っても何度も揺り動かされたし、義両親は日増しに歳をとっていく。その度に仕切り直し、出来ることだけに絞って一生懸命やった。後悔が無くはないけれど、あの時の選択は間違っていない。(そのあたりも今後書く予定)

 おかげで夫の両親を道ずれに自殺することもなく、きちんと見送れたし、私たちは今も生きている。