いつか愛せる

DVのその後のことなど

5年前の苦労は不幸じゃなかった

 義両親と過ごした最後のお正月の後はどうしていたっけ?と思い、当時の日記もどきのメモを見てみた。もう5年前の2018年1月の各週末のこと。

 

  • 義母に「今日のお昼は何を買っていきましょうか」と電話すると「すき焼き。···嘘、冗談よ」と言われたこと。でも多分本心なので、1人分のアルミ鍋のすき焼きを買って行った。こういう便利な物を買い置きしようかと思ったが、目も指の力も弱っていてスープや七味の小袋を開けるのさえ難しいに違いない。便利な物は健常者向けなのだと気付いたこと。
  • 義実家に着くと私の分と一緒に夫の湯呑みも用意してあり、夫が不調で行けないことを申し訳なく切なく感じたこと。
  • 便座が冷たいと思い便座シートを買って行ったら、汚しやすいので使用の度に義母が拭くからシートは使わないと言われたこと。
  • トイレが寒くて「出た後ガタガタ震えてしまう」と聞いたこと。(翌日センサー付きストーブを買ってトイレに設置した)
  • 昼食が終わるまでずっと義母の近況報告のおしゃべりが続いて、少女のように見えたこと。
  • 二階からおろしてほしい物ありませんか?」と聞くと「マフラーと靴下」と言われ、いっぱい見つけたこと。古いものを少し捨てさせてもらえたこと。カシミヤの未使用の黒いマフラーと赤い革手袋は私にくれたこと。

 毎週末をそんな風に義実家で過ごし、家に帰れば自分たちの問題が待っていた。私の実家にもまた別の問題があったけれど、関わる余裕なし。

2018~2019年ごろは義実家と夫のヘルプで慌ただしく、仕事も危うくクビになりかけた。それらもいずれ少し書きたい。

 DVという困難が終わった時に油断していたかなあ。また何年もきりきり舞いして、趣味とかお洒落とか自身を気にすることとは無縁の生活。人生には、複数の困難が一度にくる時期があるらしい。

 それでも私は、今は無き義実家を懐かしく思う。だから不幸ではなかった。義両親は単なる夫の親でなく、私の友になってくれた。夫抜きでも私と個人的な関係があった。それは介護という問題が無ければ培われなかった。

つくづく人生は多面的。不幸か幸福か傍目にはわからず、本人にさえ短期的にはわからない。視野を広くしないと、天からのプレゼントに一生気付けないかも知れない。

 それに人間自身も多面的。どこをどう切り取るかでまるで別人。私の周囲の人だって、見える姿はわずかな一面だけ。

           

 私は今、ブログで自分の2~3面くらいは出せているのかな。20年前と違って自分の過去として語れるネタが、DVだけではなくなった。誰かの役に立てるかも知れない経験が増えた。歳をとると経験値が上がる。そう思えるのは悪くない。

 先日気付いたばかりだっけ。人生の基盤=ベース音に耳を傾けたら、さらに別の発見がありそうな気がする。