いつごろだったか思い出せないが、介護を続ける危機を感じたときのこと。共倒れを防ぐために、夫の実家とかかわる頻度を減らせと夫から言われたより後だったろうか。
とにかく人手もお金も足りなかった。役所に行けば色々な支援はある。パンフレットを熟読したし、実際にいくつかの窓口に相談にいった。でも介護保険だけでは足りない。
何が足りないと思っていたのかも、混乱していたので思い出せない。多分、夫の両親を病院に連れて行ってくれたり、ちょっとした家のことを手伝って欲しかったのだろうか。高額なお金を払えば、民間の支援を受けられるだろう。でも何年続くかわからないことに大金を払う経済的余裕は無かった。
それに夫の具合がどんどん悪くなっても、夫への公共の支援は存在しない。私が職場にいる時に「動けなくなった」と電話があると、気が狂いそうな気持ちで早退するしかなかった。精神的に追い詰められていた。
必死にその日暮らしを続ける中で、頭の中の一部分だけは冷めて客観的だった気がする。私はふと、役所の受付の前で倒れようかな・・・と思った。
足と耳が不自由だった夫の叔父さんを思い出していた。かつて火事で住まいを全焼させ、やむなく夫の実家で暮らした時期がある。でも非常に自由な人で、車椅子で出て行ってしまった。自分で役所に掛けあい、手厚い支援をうけて生活していることが後にわかった。まだ日本には、体の不自由なホームレスが助けを求めれば受け入れる余力があったのだと思う。
その記憶のため、堂々と助けを求める人間には超法規的に対応することを知っていた。まともな手続きではどうにもならない。だから受付で「○○課にも△△課にも行ったけど駄目だったんです。助けてください」と相談することを本気で考えた。
もしそれを実行した時、自分はどうなるだろう。自然に泣き崩れるかも知れないし、戦略的に倒れるかも知れない。見た目にも私はげっそりやつれていたから何も疑われないだろう。
そんな想像をしたものの、やはり実行はしなかった。そういう自分になりたくなかったし、人に迷惑をかけるのが嫌いな日本人気質が押し留めていた。
そういう発想が出たのは、夫の叔父さんの記憶からだけではない。元々の私の性格では、恥ずかしくて絶対に出来ない。本来の私は、困った時にただ途方に暮れて死を待つだけかも知れないほど軟弱だった。
私の変化の理由は、DVの経験。公共の女性センターを訪ねたことが、当時の私にとってどれほど恥ずかしいことだったか。何ひとつ取り繕うことが出来ない状況は、まるで精神的に裸をさらすような気分だった。でも自分でどうにも出来ないときには助けを求めることを、あの時に学んだ。
○○市役所さん、危うく介護で超法規的な支援を迫るところだったけど、やめておきましたよ~
でも後に、義実家の売却の時に不正の濡れ衣で苦労させられたんだった! 助けられたし、不快な思いもさせられたし、色々あったなあ役所には。