いつか愛せる

DVのその後のことなど

介護が佳境に入ったころ⑤

 義父のステント手術の話の続き。1回目の手術日は私の体調がボロボロ過ぎ、電話で立会いを断った。(お陰で、なんだ行かなくても済むのかと証明された)次の土曜日には2回目の手術に立ち会うため病院へ行く。

 まず朝、義実家へ。疲れを隠さず、あえて義母の(オムツと併用する)パッドは重いので買っていかなかった。買い物はヘルパーさんに頼めるはず。義父の下着をもって病院へ。

 義父は治療の内容は理解していなかった。なぜかベッドに複数のパンツが出してある。「新しいパンツだ」と言うが、看護師さんは「履こうとしているのを見ました」と言う。履いて汚して干したのかな。本人は「何かこぼした」と言うが、もうどうでもいい。汚れ物として持ち帰ることにした。

 急患が入ったそうで1時間半も遅れてやっと呼ばれた。私は待合場に行く。小部屋も空いていたのでソファで横になったが、夫とメールのやり取りをして眠れない。

 

 終了後は医師からの説明。私は「通院にはもう同行出来ない」と言わなくてはならず緊張する。患部のレントゲンや動画を見せられる。

詰まった箇所をバルーンやステントで通し、微かに血流が治った。これで足が良くなるのか、ダメで指の切断になるか経過を見ないとわからない」とのこと。

ちょうど退院後の通院の話題になり「行けません」と言っている時に夫から電話。何度もかかってくるので無視しきれず出た。「通院には行けないと言え」と繰り返された。

医師は「取り敢えず予約を入れるので行けなければ変更してください」と言い、翌日の退院が決定。日曜日に退院できる病院は珍しくて助かった。

 午後3時ごろ義実家に戻った。洗い物は洗濯機に入れたが他は手をつけず。申し訳ないけれど片付けは義母にまかせる。

ひと息つくとまた夫から電話。雑談が長くてうんざりしていると「実は動けない」と本題に入った。なぜ早く言わないのかと慌てて帰宅した。

帰宅後も休める状況ではないし翌日退院の支払いなどの準備もあるが、義両親から手を離していくと自分に言い聞かせた。

 

 こうして書くと「荒んでいたなあ私」と思う。義父がパンツを汚したのも色々葛藤があっただろうけれど、配慮できず。義母も私の様子を見て不安だったに違いないし、もちろん動けない息子を心配していたはず。でもそこで考えると私は壊れるのでやめた。多分、私はギリギリまで体力を失わないと手を離せなかったろうから、その状況も天の配剤。

 アルコール依存だった夫との共依存を克服した経験はある。放っておいたら死ぬかも知れなかった夫から手を離した過去。でも夫は本人次第で生き直せる状態だったけれど、義両親は本人の責任外の理由で改めようもない。

 だから共依存と少し違うかも知れないものの、自分を優先しなくてはいけないのは同じ。そんな混乱の状態はしばらく続いたので、少しずつ書く予定。