いつか愛せる

DVのその後のことなど

義実家と距離をとるチャレンジ④

 2018年のゴールデンウイークに、夫が義母と電話で話している最中に吐いてしまった話の続き。

しばらくして夫の吐き気と冷や汗は治ってきたので、心配しているに違いない義母に電話で報告。

でもその後は下痢。薬を飲んでもまた吐くし手も震えていた。夫が眠れないので私も朝方まで起きていて、ようやく明るくなってから眠った。

しかたない。連休明けも休もう。連休の中日も出社出来なかったので、多分私は十連休くらいになった。仕事のことを考える余裕もない。

 月曜日はどうせ有給を取ったのだから、漢方薬局に行って夫の薬や食事の相談をしようと思い立った。夫ひとりにしておくのは不安だけれど、どうしても役に立つ知識がほしかった。この日もあまり眠れず。

 火曜日は夫の薬が届くのを待ち遅刻して出社。この日は、義父の通院日だった。私が手を離したのでヘルパーさんが付き添ってくれた。ステントの手術後の経過がいまひとつだったのか、義父はついに右足の親指と人差し指を切断することになってしまった。

2週間後に手術の説明があるから、その日は家族の付き添いが必要とのこと。手を離すことにしたのにまた私が行くのか・・・

 夫には義父の件はまだ話せる状態ではないと思い、すぐには伝えなかった。具合も悪すぎたし、他にもストレスになる心配事が多すぎた。 

 義母の具合も良くならず、また介護タクシーで通院していた。もし義母が入院となってしまったら、義父をひとりにはしておけない。義父も同時に入院してもらわなくてはと考えていたが、幸い義母は帰ってきた。ただし背骨がつぶれて中で出血しており、絶対安静だという。コルセットを作るため翌週も通院しなくてはならない。 

実はこの週が、義母が自宅で過ごせた最後の週になった。

          

 この時期には「これでもか」というほど次々にトラブルが起きた。何ひとつ改善しないうちに次の問題が起きる。スケジュールもどんどん変わっていき、日記もどきの当時の記録は混沌としている。

 この時、同時進行で私は義実家の土地(家は古いので価値なし)の見積もりを複数の会社に依頼していた。医療費もかさむし、退院出来たとしてももう自宅にもどるのは無理だろう。施設に入るためにお金の用意もいる。

名義人である義母の了承もとれないうちに動いておかなくてはならず、何もかもが綱渡りだった。