いつか愛せる

DVのその後のことなど

赦しに興味はないですか?

(あまり興味を持たれない内容だとわかっているのに書きます。すみません)本当はこういうことも追求して書きたくてブログを始めたのに、難しくて進まず。

 先日たまたま古いメールを探している時、目的とは別にすっかり忘れていたメールを発見。2006年に、まだ学生さんだった小松原織香さんと数回やり取りしたもの。小松原さんは現在は哲学者で、私が何度か感想を載せている「当事者は嘘をつく」の著者。

 ご本人のメールは勝手に載せられないので、私が書いた部分だけ備忘録として転載。すっかり忘れて「あら17年前にこんなこと書いたの」という状態。

ちなみに***の伏字は当時の小松原さんのハンドル。そして「デリダ」はフランスの哲学者ジャック・デリダのこと。彼女は当時すでにデリダを研究中。

 

 私は自分の感情を取り戻したときに、もう痛みと怒りを感じていたのです。あまりに激しくて自分でも持て余しました。充分に感じることができたその後、今度は楽になるために手放しました。

 最近気付いたことで、まだ整理中なのですが。私にとって「ゆるすこと」=「積極的に傷を手放すこと」だったのです。

こういう話題は普通のサバイバーには二次被害になりかねませんが。***さんは本気でゆるそうとされているので、参考になればと思います。

 私の感覚はどうもデリダの定義とは違うのか、あるいは読んだ情報が少なくて理解できていないようです。相手がゆるすに値しなくても謝罪がなくても赦す、という点は同意ですが。

私はクリスチャンの知識ゆえ早くからゆるしに取り組みましたが、暴力から離れても、感情はまったくついて来ませんでした。

散々苦しんでわかったのは、私は自分の傷を手放したくなかったということです。

 意識の浅いところでは、自分を癒そうと務めていましたが、深層では、自分がうけた被害の痕跡を消すまいとしていました。なかったことにするのが悔しかったのでしょう。

これは本当に無意識であって、その最中に自覚したら大きなショックをうけたと思います。

 大げさに言えば、傷つけた相手に向かって「これがあなたのつけた傷」と見せ付けたかったのですね。自分を癒そうと思いながら矛盾していました。

時間は役に立ちそうにありませんでした。放っておいたら決してゆるせもしないし癒しもなかったでしょう。自分が積極的に手放す以外なかったと思います。

 相手の存在をゆるす、ということならとっくにゆるせていました。私には、***さんもそうであるように感じられます。

私は相手が自分にした行為そのものを、まるで忘れたかのようにゆるし、自分は楽になりたいのです(そしてもうほとんど楽です)

 こんなわけで私の場合、癒しと赦しが同時進行です。癒しを伴わない赦しは理解できないし、その目的もわかりません。何のためにゆるすのか。

もしかしたら、デリダと私は癒しの概念も違うのかも知れませんね。

 

 こういうの ↑ に興味を持つ方は(少なくとも日本で何らかの被害に遭った人では)あまりいない。当時の彼女も同じ思いだったから、私たちは互いを「見つけた」という感覚だったと思う。

 上記を書いてから17年。私の時間は止まっていたのか!と突っ込みたくなるほどまったく進んでいない。一方で彼女は立派な研究者になられていた。ありがたく著書からその知識や解釈を吸収させていただく。

それで私の(哲学的思考の)時間を進ませ始める。でも私は学者になる気はないので、専門知識無しでどうやって文章にするのか未だにわからない。私は哲学よりもっと生活っぽく書けたらいいなと思っているけれど。