いつか愛せる

DVのその後のことなど

本日の妄想は人命軽視から武士道まで

 先日、某国のゴーストタウンのニュースから想像した風景の話を書きましたが、私の思考はさらにワープしていました。なにしろ妄想ですので💦

          

◆人命軽視 「あの国では人命が軽い」という印象を以前から持っています。それは過去にひとりっ子政策を行ったくらい、人間が多いからかな? と思っていました。比較的最近の記憶では、新型コロナ対応のときです。大きな体育館にベッドを並べ、患者を大量に収容しているニュースをテレビで見ました。ところがそれは表向きだけで、治療は何も行われていないと後に知りました。しかも罹患した医療従事者は院外に放り出されているとか。そんな実情がネットでは紹介されていました。町ごとの隔離政策で食料が底をついても、ろくな配給も無かったという話題もありましたっけ。

◆価値観の違い 話はもっと前に遡り、あの国の企業にスカウトされた日本人技術者が、日本との考え方の違いをコメントしていたのを思い出します。日本は不良品をゼロにすることを基本に組み立てるので、丁寧で時間がかかる。でもあちらでは「少量の不良品が出るのは当り前」と考えるので、仕事が早いと。日本人技術者は当初はひどく戸惑ったそうですが、やがて「どちらが正しいわけでもない」と受けとめたそうです。今でも某国製品には不良品が多い印象です。最近も、どこかの国に武器を売ろうとして断られたとか。

◆不良品の軽視 他の国でも、不良品の存在は当り前と捉えられることはあるようです。海外の電気屋さんで部品購入した人の話を読んだことがあります。10個入りのうちいくつかは使えないものだった。むしろ「使えるのがあって良かったね」と店主に言われたとか。これが日本なら「申し訳ございません」とお詫びの上、無料で交換してくれるでしょう。だから某国だけが特殊なわけではない(もしかして特殊なのは日本?)でしょうけれど、不良品で有名になるのは圧倒的に数が多いからでしょうか。

◆命にかかわる不良品 「少量なら不良品は当り前」という考え方を認めるとしても、無差別に適用するのは大問題では? 命を運ぶ列車や車を同じ価値観で造られたら、私は絶対乗りたくないし食品も極力避けるし、建物や橋にも近寄りたくありません。でもかの国ではまかり通っている。武器が暴発したら大量の死者が出ますから、買い手に断られるのは当然だと思います。(それでも安くして途上国に売ったとか)

◆人と物が同列 不良品の扱い方が、私の中で人命軽視と繋がってしまいました。不良品の存在は当り前だし、不良品は直さず捨てて使えるものだけ使うという価値観。かの国の現政府は、新型コロナに罹患した人たちを不良品と同様にしませんでしたか? きっとそれが全体主義(個人の生活や意見は国家全体の利害に従うべきだという思想)というやつなのかな。それは軍国主義と言われた戦中の日本も似ていたと思うけれど、でも何かが違う気がします。日本は「国のために命も差し出せ」と言いつつ、その命は重んじていたように感じるのです。それは武士道のなごりだったりするのかな。

◆分析がとまらない かの国でも個人個人が人命を軽視しているとは思いません。身内や友人のことはとても大切にする国民性だと聞きます。ただし「知らない人が道で倒れていてもほぼ助けない」とも聞きます。なぜなら、なまじ助けると「賠償請求される恐れがある」から。身内とそうでない人との落差が激しいようですが、その線引きはどこにあるのかな。

 いくら考えても妄想に過ぎず、私にはそれを生かす機会があるわけでもないのですが、考え始めると止まりません。取り合えず、不良品を軽視する人は人命も軽視するかも知れない、と自分の脳に刻みました。