いつか愛せる

DVのその後のことなど

構成要素は遺伝というより経験値かも

 先日、実家へ行き母とおしゃべりしました。「その話は前回も聞いたなあ」と思うことが少しずつ増えていますが、お年頃(?)でしょうかね。

◆子どものころの話 ずっと以前、母の親友が私に言ってくれました。「子どものころの話を今のうちにたくさん聞いておいてね」と。なるほど、私も記憶のない私自身のことを両親はたくさん覚えているはずで、いつまでも後回しにしていては急に聞けなくなる恐れもあります。今回、私と母の両方に関わる話を聞けました。

◆人生の棚卸をしたとき 話しはさかのぼって、私がDVからの回復中に「人生の棚卸」をしたときのこと。子どものころからの記憶を片っ端からノートに書いて、自分がおとなに甘えない子どもだったのを思い出しました。それが元々の性格なのか成長過程で変わったのかはわかりません。「人生の棚卸」についての記事はこちら↓

私は母から何事も手取り足取り教わることがありませんでした。我が家が少し厳しかったと気付いたのは、成長後に感じた友人たちとの違いからです。

 自分の性格のややこしさの原因に気付いたら愚痴ったりして乗り越えればいいのかも知れませんが。なぜか私の思いはすぐ母の子ども時代に飛びました。そして幼いころの母の状況を想像して「大変だったろうな」と同情しました。

            

(赤いカーネーションの花言葉は「母への愛」)

◆母の子ども時代 母が2歳のとき父親(私の祖父)は病死したと聞いています。母親(私の祖母)はシングルで5人の子を育てたわけです。美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」という母を想う息子の歌がありますが、祖母はあの歌にあるような力仕事も経験するほど必死に働いたそうです。だから祖母は、一般的な親子のような母と娘の時間を持つ余裕はなかったはず。つまり母が親から家事などを教わる機会はなかったから、私にも教えなかったと想像できたのです。先日母からこの話題が出たのは偶然ですが、棚卸の際の私の想像は当たっていたと証明されました。

◆若き日の母 母は義務教育を終えると同時に田舎から集団就職で東京に出ました。朝ドラ「ひよっこ」のイメージですね。寂しさもあり早くに結婚して私を生んだのは20歳のとき。まだまだ遊びたい年ごろだし、普通なら頼りたいはずの母親は遠く離れていました。そんな当時の思いを、今回こんな風に教えてくれたのです。『若くて貧乏で、とにかく食べるために働くことが第一だった。娘には何も教えなくても自然に覚えていくだろうと思っていた。自身もそうだったし「この子は馬鹿じゃないから」と考えていた』と。そうかあ。当時の母の思いが私の想像以上に鮮やかになりました。

◆今の自分をつくったのは自分 母は私に「何も手をかけてやらなくてすまなかった」と謝ることがありますが、私は謝ってほしいとは思っていません。確かに育ち方によっては私はもっと大らかな性格に😄なったのかも知れませんが。今の自分の欠点を母のせいとは考えないし、何ならあの若さで投げ出すことなく育ててくれたことはすごい、と感謝しています。ともあれ当時の母の気持ちを聞けたことは、自分を構成する細胞のいくつかを発見したような気分です。