小西真理子さんの論文から、共依存について考える話の続き。前回の記事はこちら。
論文の全文はこちら↓「共依存」再考―フェミニズムによる批判の検討―
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/45/0/45_123/_pdf/-char/ja
今回は論文の中のこの一文について考える。↓
この例では、共依存と言われている関係性のなかにも肯定的な要素が内在する可能性が示されている。
「この例」というのが、引用してくださった私のことだけれど「肯定的な要素が内在する可能性が示され」とはどういうこと?
多分こんな感じ→「共依存状態の関係は破滅的で偽の愛しか存在しない」という議論が多数だけれど、あさみまなの事例には肯定的な要素の可能性があるよ、とおっしゃっている。
やっと自分なりに理解できた。
私自身は夫と共依存状態にあった時の関係に、肯定的な要素は感じない。でも小西さんは、ピンポイントなタイミングで捉えているわけではなさそう。
私は共依存を状態と捉えるので、時間によって変化すると考える。でも小西さんは、共依存関係をカップリングで考えるのかな。つまり、そのカップルの関係が変化する可能性は前提に無い。
それは多分、一度共依存関係に落ちたらそのままガッチリ固まって動かないものと(研究者さんたちに)思われているから。
私は自分と夫の関係を、時期別に以下のように分けて考える。
A:DV渦中····共依存関係(私は夫の世話を自分の義務だと思い込んでいた)
B:回復中····独学で共依存からの脱却を実践(私が一方的に学んだので夫は不明)
C:現在····共依存関係ではない(治療は受けていないので自己判断)
Aの時期(DV渦中)の私と夫との関係に、良い点があったとは思わない。未熟な人間同士が結婚してDV≒共依存状態に陥っただけ。二度と戻りたくないし、今は共依存状態にはないと考える。
小西さんは、批判の多い共依存概念を再考する目的で論文を書いた。だから私のAの時期ではなく、AからBやCに変化した全体を指していると思う。そうして「DV=分離させるしかない」という常識にも一石を投じたいご様子。この私の解釈が合っているなら、やはり事例として使っていただけて光栄。
偽の愛しか存在しないと言われる共依存関係に、かつて私たち夫婦はあった。でも私は偽の愛など求めていない。あの関係に執着する要素は、私には無かった。離婚の体裁の悪さや、様々な困難の予測や面倒臭さがあっただけ。
(ニリンソウの花言葉は「ずっと離れない」)
別れる別れないについて、私が「離れたくなかった」と論文内で表現されているので、本人の認識とは違う。やはり、私の変化を考慮に入れていないためかもしれない。
何度も書くけれど、私が別れなかったのは結果論。Bの回復中の時期には、離れることも選択肢にあった。離れるなら互いに回復出来たときに、再び一緒になる可能性はあった。(私がそう考えていただけで、夫のことはわからない)
その発想が、すでに共依存者らしくはないはず。共依存者は相手から離れようとしない。私がその発想をした時点で、かなり回復していたと考える。その時期以降「愛」を考えてきた結果、本物か偽物かを見分けることも、少しは出来るようになったと思う。
小西さんの言われる「肯定的な要素」を、変化の可能性と捉えるならば、そのまま賛成。共依存に陥ったカップル=不健全で分離する以外に救いようがない、と決めつける風潮は私も批判したい。
あるいは。私がこういうことを考えたのは、DVと共依存状態を経験したおかげ。精神の健康を取り戻したくて必死に学んだし、関係の改善も実行したから。だからあまり認めたくないけれど、今の私の価値観は、DV≒共依存状態を通らなければ身につかなかった。
それが「肯定的な要素が内在」なのかな?
こうして書くたびに思う。私の考える回復には2ステップある。優先順位の一番は「本人の回復」。20年前に読んだ本では「エンパワメント」と表現されていたと思う。
そして2番目が「関係の回復」。逆の順番はあり得ない。本人が病んだまま関係の改善を出来るはずがないから。一緒に暮らしたままだと、その2つに同時に取り組まなくてはならない分、難易度が上がるはず。私が成功したのは、B(回復中)の時期に私が夫にあまり目を向けず、たまたま夫も私にほとんど構わなくなっていたおかげ。
共依存は関係性の病とされている。なのにこの2つのステップを明確に分ける文章に出会ったことがない。どうしてだろう。このことを説明したい思いもあって、自分の経験をまた本にしたいんだけどな。素人には荷が重いけれど、諦めない。
謙遜を考えることはいったん脇に置いて。専門家には書けないことを書いてやろうと思う。奇跡なら過去にもいくつか体験した。
DV渦中のとき、女性センターで「DVは治りませんよ」と言われて「じゃあ私が最初の例になってやる」とつぶやいたことがひとつ。
本の出版後に同名のサイトを作って掲示板で自助を始めた時「被害者と加害者とクリスチャンが入り乱れて会話する場にしたい!」と言ったことがひとつ。(注:今の私は被害者・加害者という言葉は嫌いだけれど)
どちらもあり得ないはずのことが現実になった。だからやはり言葉にしておく方がいい。新しい理論をぶち立てるような大それたことは言わない。きっと役に立ててくれる人がいるはずのことを、私の言葉で書く。素人だからこそわかりやすいはず。
だから神様、私に文章力と分析力と、興味をもってくださる奇特な編集者さんを与えてください😊