いつか愛せる

DVのその後のことなど

そこ(共依存)に愛はあるんか?

 久しぶりに図書館へ行った。読みたい本のうち1つは在庫あり。論文に私の著書を引用してくださった小西真理子さんの「共依存の倫理-必要とされることを渇望する人びとー」。これは論文から4年後の2017年に書かれたので、小西さんの現在の考えや目指すものが大体わかるかなと手に取った。

 あ~💦一般向けというより学術的だ。目と頭がつらいけど少し読む。

 その本の第4章は、論文に追記修正したほぼそのままの文章。だから私の本の引用もあって驚く。引用部分が少し増え、言及については後半(打消し線の部分)が変化していた。

彼女は、客観視すれば完全に否定的で救いようがなく、別れるのが最善の方法にしかみえないような関係性のなかで、何か大切なものを守ろうとしていたのである。『いつか愛せる』という著書のタイトルは、彼女が守ろうとした、あるいは築き上げたいと切に願った「愛の関係性」が、彼女の共依存経験の中核にあることを示唆しているように思われる。

 では、彼女が守ろうとしていたのは、いったい何なのだろうか。その提示には、非常に慎重になるべきであるが、ここではそれを「愛」と呼ぶことにする。共依存における「愛」とは、「偽物の愛」あるいは、共依存は、愛の「闇の側面」であると否認されるものである。しかし、その「偽物の愛」の関係を築いている本人たちにとっては、それは紛れもない「愛」だと認識されていることがある。あるいは「本来愛(愛すること)そのものは、狂気=幻想を秘めたもの」ではないだろうか。

 

 なるほど。やけに控えめな言い方だと感じた部分が、明確に「愛」と呼ばれている。分析していただいた私が、逆に分析仕返しているのは🙃変な感じ。でも小西さんが伝えたいことが少しわかって、私の現実とのちょっとした違いもはっきりしてきた。

 この本の最初に、映画「リービング・ラスベガス」が紹介されている。ニコラス・ケイジ主演でアカデミー賞も取った作品らしい。

こういう「愛」を紹介されると、私はう~んと唸ってしまう。無理です。アルコールで死のうとしている人を肯定するのは・・・。解説を読んだだけで映画は観ていないけれど、私なら「一緒に生きて」と懇願してしまうと思う。

 そうだ。私は自分が共依存の状態にあると自覚した時から、変わりたい、変わろうと思った。でも小西さんは共依存の状態にある関係性そのものに「肯定すべき点がある」と見ている。そこが異なる。

「そこに愛はある?(←脳内には大地真央さん♡好き)」かと考えれば、ある場合もあるのかなあ。私は未熟すぎて、自分が愛せていたとは思えないけれど。(むしろ恐れて嫌悪して恨んで憎んで軽蔑していたのよ😓ある時期には)だからこそ、本当に愛せるようになりたいと思ったわけで。

 小西さんは「分離ではなく、関係性やつながりを保つなかで、解決の道を探りたいと願う声もある」と主張するために、私を事例として使ってくださった。単に離れたがらない当事者は多いので、それだけでは誰も説得できない。何らかの解決を得た事例が必要だったはず。だから私を使ってくださったことは、本当に光栄に思う。

肯定すべき点があっても、共依存の状態が破壊的な関係であることに変わりはない。「解決の道を探りたいと願う」なら、解決のための変化は必要なはず。

 本の中には、その関係を変えた、あるいは変えようとする話が出てこない。私の本を引用してくださっても、私が現在は暴力をうけず共依存的でないことは、明確にはされていない。まるで隠しているかのよう。

 あ、やはり今も私が共依存状態だとお考えなのかな?・・・もうこの際、そこはどちらでもいいや😗「解決の道」を進むには、自分自身と、相手との関係の両方の変化が必要だというのが、私の主張。

 ちなみに図書館の貸し出しカードが見つからなくて、本は借りられなかった。引用ページをコピーしてきただけ。私のドジ!