いつか愛せる

DVのその後のことなど

「歪な愛の倫理」を読んだ

 図書館にリクエストしていた残りの本が入ったので読む。著者の前作「共依存の倫理」よりは、素人の私にも読みやすかった。

 

サブタイトルの<第三者>は暴力関係にどう応じるべきかについても、しっかり書かれていた。ただ本人の周囲がすぐ実行できるようなものではなく、まず複雑な状況を理解してもらおうとする印象。そういう意味ではやはり専門家向けかも。

前作同様に私の著書からの引用があり驚く。まだ他には使えるような事例が発表されていないのかな。感想は山ほどあるけれど、書くのに時間がかかりそう。とりあえず引用部分の前後をコピー。第2章の43~45ページ。

青文字が著者の文章で、緑文字が私の著書の引用部分で、黒文字は今の私のツッコミ。

 

1 分離以外の解決策の必要性ー「離れたくない」

 暴力関係にある人びとは、特に生命保護の観点から、(児童虐待では最終的には家族の再統合が目指されているとはいえ)基本的には分離することが望ましく、その方針を基準とした解決策が提供されてきた。したがって、暴力をふるうパートナーと「離れたくない」という声は、軽視されてしまう傾向にある。

『いつか愛せるー共依存からの回復』(朱鳥社、二〇一〇)の著者である元DV被害者のあさみまなは、以前彼女に暴力をふるっていた夫と、今もいっしょに暮らしている様子を著書に記している。あさみは、暴力の残虐さを切実に訴え、命の危険を感じた場合、夫から離れ、暴力から逃れる勇気をもつことの重要さについて語っている。しかし、その一方で、彼女は夫に暴力をふるわれながらも、夫のそばを離れたくなかった過去を、つぎのように回想している。

(私は「夫のそばを離れたくなかった」という書き方はしていないし、1ヶ月以上に渡る家出もした。でも以下のように思ったのも事実)

 私は自分が暴力の中にいた時、何とかして自分と同じ経験をした人に出会いたかった。とりわけ、別れずに暴力から抜け出した人の話を聞きたかった。

・・・・・[女性センターで行われたカウンセリングにおいて]カウンセラーの方はベテランらしく、いろいろと情報を与えてくれたことには感謝しているし、何を強制されたわけでもない。もしかすると、その方は私の話を聞いて「命の危険にさらされているのに自覚していない」と判断されたのかもしれない。

 けれども私は初対面で、

「暴力は治りませんよ」

と一喝され、シェルターの説明を受けた。帰る頃には今すぐ家を出なければならないかと思いは乱れ、混乱は何日も続いた。

 もしその時にシェルターに入っていたら、こうして彼に夕飯の支度を頼んで原稿を書いている私は、たぶんいない。私は自分の心に気付くこともなく、彼を憎み続けていたかもしれない(あさみ2010:89,94-95)。

(カッコ内は著者名と発行年度と該当ページだと思われる)

 命を守ることは尊重されるべきであり、分離は間違いなく重要な対処策のひとつである。しかし、彼女のような声が存在すること、すなわち、分離ではなく、関係性やつながりを保つなかで、解決の道を探りたいと願う声もあることも、私たちは聞き逃してはならないのではないだろうか。彼女は、客観視すれば完全に否定的で、救いようがなく、別れるのが最善の方法にしかみえないような関係性のなかで、何か大切なものを守ろうとしていたのである。

 ここであさみが守ろうとしていたのは、いったい何なのだろうか。その提示には、非常に慎重になるべきであるが、ここではそれを「愛」と呼ぶことにする。このような「愛」とは、「偽物の愛」であると否認されるようなものである。しかし、その「偽物の愛」を築いている本人たちにとっては、それは紛れもない「愛」と認識されていることがある。あるいは、「本来愛(愛すること)そのものは、狂気=幻想を秘めたもの」(河野2006:88)ではないだろうか。

 

 私がかつて共依存状態だったことを認めると、それだけで世間(というより支援者や研究者)には「偽物の愛」と呼ばれてしまうのよね。実際に私は未熟すぎて今も「愛している」という言葉を使いにくいのでそれはいい。ただ私は「愛」ではないものを「愛」と勘違いはしていないと思う。

続きを出したいと思っている本には、「愛」についても書こう。多分また自分の未熟さが露呈してしまうだろうけれど。そもそも「いつか愛せる」というタイトルの意味を書いたつもりが書いていなかった?

 ところで、新刊の本からの引用ってどの程度ならゆるされるのかな。この分量なら著者の小西さんの害になるとは思えずコピーした。さらに自分の本の引用なら誰にも文句は言われないはず・・・と思うんだけど、法律はよくわからない💦