いつか愛せる

DVのその後のことなど

「愛って何だろう?」の原稿発掘

「愛って何だろう?」と題して10年以上前に書いた文章です。昨日の記事に事情を書いたのでよろしければそちらからお読みください。これは学校の記録のため書き直した短縮版で、本番用の原稿はこの2倍ありました。(一般的なDVの解説をほぼカットしました)

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◆愛を追い求めなさい。(Ⅰコリントの信徒への手紙14章1節)

何年か前に聖書のこの箇所が目に飛び込んできて、思わず「はい!」と返事をしました。愛を追い求めるとは愛されようとすることでなく、愛がどんなものかを知ろうとすることだと思っています。

私と夫は結婚して10年近くの間、ドメスティック・バイオレンス=DVと呼ばれる状態にありました。けれど奇跡的に今はDVとは無縁です。この10年くらいは傷を癒したり関係を作り直したりして結婚20周年になりました。DVのことを話すのに愛をテーマにするのは、DVをなくすための話をしたいからです。

 

◆DVの定義 まず、ドメスティック・バイオレンス=DVとは何でしょうか。今は結婚していないカップルにもDVという言葉が使われています。大まかにはカップル間の暴力を指しますが、内閣府男女共同参画局のホームページを見ても明確な定義はありません。ですから何がDVなのか曖昧で、自分が当事者であるのに気付かない人も少なくありません。

では暴力とはどんなものでしょうか? DV被害者支援のためのサイトによると、身体的暴力、精神的暴力、社会的暴力、経済的暴力、性的暴力などがあげられています。肉体に向けるものだけが暴力ではないと知っておいてください。むしろ肉体以外に向かう暴力の種類が豊富です。以上が、一般的に言われているDVと暴力の定義です。

 

◆私の解釈 そしてここから先はすべて私の個人的な意見となります。私は過去に「いつか愛せる-DV・共依存からの回復」という本を出版し、同名のサイトを運営してきました。自分の経験を振り返り、同じ経験をした女性や逆の立場の男性とも交流してきました。そこから気付いたことをお話します。

私の考えるDVの本質は、支配関係です。怒鳴ったとか殴ったという行為がDVなのではありません。「○○していないから」とか「まだ1回だけだからDVとはいえない」というのも違います。ふたりの関係が、支配者と被支配者になっているのがDVです。関係という言葉は抽象的でわかりにくいかもしれませんが、とりあえずDV=支配関係と頭においてくださるようお願いします。

 

◆感情の責任を押し付ける ひとつ、とても気付きにくい暴力をご紹介します。それは、自分の感情の責任を人にとらせること。単純に言えば「ボクはムカついている。君がボクの機嫌を何とかしろ」ということです。皆さんは苛立っているときや悲しいとき、慰めたり感情の受け皿になってもらったり原因を取り除くことを、誰かに強制したことがありますか。あるいは強制でなくてもそうなるよう仕向けるとか、当然だと思って感謝もしなかったことはありますか。

誰でもたまには不機嫌になりますが、おとななら基本的には自分で自分の感情の面倒を見ます。気遣ってもらえば「ありがとう」と感謝し、つい当たってしまえば「ごめんなさい」と謝ります。逆の立場になったときには自分も相手を受けとめます。けれども、そうではない人間関係も存在します。

 

◆責任を背負う事例 私がDV被害者だったころ、お天気が悪いと不安になりました。雨がふると夫の機嫌が悪くなったからです。不機嫌になればその日の予定を投げ出すかもしれないし、八つ当たりされたり物を壊されたりしました。だから夫の機嫌に対して年中気を張っていました。彼の感情の責任を私が背負っていたわけです。

 

◆虐待しそうになる理由 また、あるDV被害者の女性のお話です。彼女は「些細なことで子どもを怒鳴ってしまう。これは虐待ではないか」と悩んでいました。私はピンときて「夫の機嫌を損ねるのが怖いからではありませんか」と聞きました。例えば、もう夫が帰宅する時間に部屋を散らかされたとき、夫に怒られるのが怖くてパニックになるのです。私には子どもはいませんが、夫のためにお天気を左右したいと思ったほどです。自分の子どもならコントロールしたくなったでしょう。彼女も納得していました。

 

◆支配と被支配 いかがでしょう。人の感情の責任を負うことや支配関係の意味を想像していただけたでしょうか。自分の不機嫌を人が何とかしてくれると思っている人は、そうしてくれないと相手に蔑ろにされたと思うのかもしれません。そこでもっと具体的な暴力を使って脅し、恐怖を感じた相手が次から無条件に従ってしまうとしたら。常に一方だけが他方の要求に応える、支配と被支配の関係が出来上がります。

 

◆暴力の連鎖 保育の仕事につく方は、幼児やそのご両親とかかわる機会が多いと思います。もし子どもを異常にコントロールする不安定なお母さんを見かけたら、今の話を思い出してください。虐待をしているそのお母さんも暴力を受けているかも知れません。暴力は連鎖しやすいので、虐待の影にはかなりの確率でDVが潜んでいます。そんなことも記憶に留めてくださるようお願いします。

 

◆感情を閉ざす それでは、支配関係が長引いてDVの状態が定着するとどうなるでしょう。私の場合、自分というものを無くしていきました。肉体が傷つけられないときでも心は傷つきます。日常となった暴力の度にいちいち傷ついたら、心がいくつあっても足りません。私は無意識の自衛策で感情を閉ざしました。鈍感になることで修羅場を切り抜けるのですが、つらいことにだけ鈍感になれるほど器用ではありません。あらゆる感性が鈍くなって笑わなくなりました。そのうち人間であることが嫌になり、自分の存在を消したくなりました。あるときは、夫が脅しで私の首を軽く絞めている最中「今もっとあおるセリフを吐けば絞め殺してくれるかな」と考えました。そのころ鏡に映る自分の姿をゾンビのようだと思った記憶があります。皆さんにはそこまで行く前に、関係を変える決断をしていただきたいと思います。

 

◆それは愛なのか 皆さんはいかがでしょうか。例えば、大好きな彼が不機嫌なとき彼を笑顔にしようとすることは愛でしょうか。あるいは彼が抱えている仕事を手伝ってあげることは愛でしょうか。それは愛かもしれないし、そうでなく過剰な世話焼きかもしれません。愛ではないものをどうすれば見分けられるでしょう。ヒントは相手ではなく自分の中にあると思います。ひとつは、彼の不機嫌を怖いと感じるかどうか。そしてもうひとつは、彼の世話を焼くことを自分の義務だと思っていないかどうか。実はどちらもかつての私の姿でした。愛の中に恐怖感や義務感は含まれません。愛については後でもう少しお話します。

 

◆DVの入口 逆に彼からあなたに対してどうでしょうか。もしあなたが思い通りにしてくれないと文句を言ったり「別れよう」と脅したりするなら。ふたりを繋いでいるのは愛でなく支配かもしれません。支配なんて大げさではないけど少しそういう傾向があるかも?と感じるなら、DVの入り口付近にいると考えてください。放っておけば愛とは違う方へ進みますから、すぐに方向転換してください。それにこの入り口までは誰でも簡単に行ってしまうということも覚えておいてください。

 

◆否定と愛 私が自分を取り戻せた大きなきっかけのひとつは、教会に行ったことでした。そこで「神様はあなたを愛していますよ」と言われました。「愛しています」という言葉ひとつで心が動くのは不思議な気がしました。けれど私は、もうその言葉がなければ生きていけなかったろうと思います。支配されることは人格を否定されることです。私は夫から否定され続け、いつの間にか自分でも自分を否定していました。否定とはまったく対極にあるのが愛されることだと思います。それで急に解決したわけではありませんが、私は「神様に愛されている」と何度も思い出すことで救われていました。愛について、聖書にはこう書かかれています。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4節)

          

(パッションフラワー(時計草)の花言葉は「聖なる愛」)

◆愛は無かった 私はキリスト者になってから「聖書にあるように夫を愛そう。そうすれば神様が夫を変えてくれるかもしれない」と考えたことがあります。意識しなくても当時の私は非常に忍耐強かったし、表面上はねたまず自慢せず高ぶらず礼を失せず自分の利益を求めない…かのように生きていました。でもそれは心を閉ざしていたに過ぎません。実は夫への恨みが積もっていることに私は気付きませんでした。それに私に喜びの感情はありませんでした。喜びの伴わない愛などありえないと思います。さらに私は夫を信じられず望みも持っていませんでした。ただ毎日その日をやり過ごすのに必死だっただけです。私に愛はありませんでした。心を閉ざした人間に人を愛せるはずがありません。当時はそんな単純なことにも気付けませんでした。夫の方も、もちろん愛とは逆のことばかりしていました。

 

◆愛せる人は幸せ けれども、神様は私たちをこんな風に愛してくださっています。こんな風に愛されたら幸せですし、自分も誰かを愛せたらさらに幸せだろうと思うのです。心が豊かでなければこんな愛し方は出来ません。例え愛を返されなくても、愛するだけで喜びを感じられるほど豊かな人になりたい。本当に愛せている人はそれだけで喜びに満ちていると思います。私は幸せになりたいので、人を愛せる人間になりたいとあこがれます。そう思うようになったのは、支配されるのをやめて感情を取り戻した後です。

 

◆支配されることをやめる 話を支配のことに戻します。支配関係が定着してしまってから抜け出すにはどうすればいいか、駆け足でお話します。相手に暴力をやめさせることは残念ながらできません。自分に変えられるのは自分だけで、相手を変えられるのは本人と神様だけです。私はただ自分が支配されない人になる決意をして実行しました。DVの本質は支配関係ですから、支配されなければDVは成立しないわけです。

 

◆相手を変えようとしない そしてもうひとつ、夫を変えようという間違った努力はやめました。私は非常識で乱暴な夫をまともにしようとしていましたが、それは傲慢だとわかりました。私は夫に暴力で支配される一方で、自分も夫を支配しようとしていたことになります。相手を思い通りにするのは支配と同じです。もちろんそんな自覚はなくそれが私の義務だと勘違いしていたからです。でも夫を支えているつもりが、実は状況を悪化させていたのです。私が夫の世話を焼くことで、彼が過ちに気付くきっかけを奪っていました。支配されるのをやめることは支配する側になることではありません。服従をやめて対等になるだけです。

そんな私の変化は確かに夫に影響を与えました。でも夫が変わったのは彼自身の選択でした。つまり、自分が変わればふたりの関係が変わり始める。そのとき相手も変る可能性が生まれる。皆さんに出来るのは可能性を作るところまでです。

 

◆感情のふたを開ける ではどうやって支配されない人になれたのか。心を閉ざしていた私は自分が何を望んでいるかわかりませんでした。だからまず心のふたを開けようとしました。長く閉ざしていたので時間もかかり、出てきた感情はひどくドロドロでした。その中で何より強かったのは「もう暴力は嫌だ!」という思いです。よくあれほど強い思いを押し殺していたと驚くほどでした。それらを手紙にして夫に渡すことから始めました。直接言うことは怖くて出来ませんでしたので。

もし皆さんが暴力をうけていたら、多かれ少なかれ心を閉ざしていると思います。でも押し殺すのはやめて自分の感情に向き合ってください。理不尽な要求にはNO!と言ってください。何から何まで相手に従うことは、愛ではありません。支配関係の中には愛は存在できないと思います。

 

◆愛ではないもの 愛と誤解されやすいことをいくつか挙げます。支配すること、相手を変えようとすること、服従すること、絶対に離れないこと、相手の間違いを見ないことなどです。あなたと相手とどちらかにこんな誤解がないかチェックしてみてください。支配や束縛は愛でなく支配欲や執着心です。小さな焼きもちは嬉しいかもしれませんが、そこに愛があるなら相手を苦しめません。相手を自分の思う通りに変えることも、逆に服従することも愛ではありません。皆さんが私と同じ失敗をされないようにと願います。

 

◆自分が変わる 相手が変化してもしなくても、自分が変れば後々必ず役に立ちます。ですから努力を続けてください。ただあなたが変化したとき、相手が支配関係を続けようと暴力を悪化させるかもしれません。どうかそのときは自分を守ることを最優先にしてください。関係を変える方法のひとつは関係を絶つことです。離れることは裏切ることではありません。あなたの命を守ることであり、相手が変るきっかけを作ることです。支配され続けていれば相手は自分が変わる必要のあることに気付きません。間違いを指摘しないことは、愛ではありません。勇気を出して相手が気付くきっかけを作る方が、本当の愛に近いと私は思います。愛は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」と聖書にあるからです。

 

◆周囲の人にできること また、もしあなたが友人から相談をうける側ならば、まず彼女の話をしっかり聞いてあげてください。人を変えられないのはこの場合も同じです。彼女を無理やり動かそうとはしないでください。ただ彼女を受けとめてあげてほしいし、最善の判断をできるように情報を渡してあげてください。DVに関する本を読んでもらうとか、専門家への相談をすすめることも出来ると思います。

 

暴力から抜け出すことや相手と関係を作り直すことまでもっと詳しくお話したいのですが、今回はさわりの部分で手一杯でした。もしいつか皆さん自身や親しい人が当事者となったときに、思い出して生かしていただければ幸いです。そしてもっと知りたいと思われたなら、私のサイトや本にアクセスしていただければと思います。伝え切れなかった部分を伝える機会が与えられるようにと祈っています。

 

◆「被害者」「加害者」という言葉 最後に言葉について説明させてください。私も便宜上「被害者」「加害者」という言葉を使いますが、実はこの言葉のもつイメージが苦手です。その人の人格をあらわすかのように使われるからです。でも「被害者」「加害者」という言葉は交通事故などと同様に、人格ではなく状態をあらわしているだけです。

どちらも不完全な人間であり、どちらも神様に愛されている人間です。DVの入り口付近までは誰でも簡単にいってしまうこともお話しました。誰もが被害者になる可能性があるし同じ人が加害者になる可能性もあります。どうかこうしてお話したことが皆さんの記憶に残って、何かしら役立てていただくことができますように。

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 ここまで。

当時の私はバリバリのクリスチャンだったなあ。今も考え方はまったく変わっていませんけれど。ここには自分の本やサイトのことも書きましたが、当日は不慣れで何も言えませんでした。アホですね。宣伝できる機会だったのに。

 色々思い出しました。生徒さんたちのノリが良くてたくさん反応してくれたのです。暴力の種類の説明をした後、全部をうけていないとDVではないと誤解されるのを避けるため「私が経験したのはこの中の半分くらいです」と言ったら、

「え~~~~~~~!!」

それから「当時はやつれていて今より6キロ少なかったです」と言っても、

「え~~~~~~~!!」

笑っていいともの観客のようですね。もちろん真剣な時は真剣に聞いてくださいました。生徒さんが書いた感想も読ませていただいたし、良い思い出です。