読んだ本の内容を思い出して、また頭が刺激されています。以前は当り前に使っていた「回復」という言葉を、考え直しています。回復に抵抗を感じる当事者(暴力で心身に傷を負った人)があると知っているので、理由を考えていました。
◆「回復」を嫌う理由 先日「歪な愛の倫理」の読後感想を書いたときに、理由が見えた気がしました。多分、当事者を「回復させるべき弱者」とみる支援者や治療者があるからだと気付きました。「こういう風になるべき」と教科書のような回復イメージを提供されたのかも知れません。
私の場合は自助の活動で癒され力をつけたので、治療や支援にはほとんど係わっていません。当時はどうなることが回復なのか明確な目標もありませんでした。だから自分で考えることができたしそれで良かったと思います。
◆まるで言葉狩り 回復を拒否する理由が当たっているとすれば、「共依存」と同様で言葉の意味が変わり価値が目減りしています。共依存は私には大いに役に立った概念ですが、当事者以外に悪用され、時には嫌われる言葉になりました。(DV殺人の原因を「被害側が共依存者でマゾだったから」とされた判例があります。共依存者は暴力をふるわれても仕方ないことにされてしまいました)
当時者が嫌う言葉はなるべく避けたいですが、よりふさわしい言葉が見つからず変えるべきかどうかも判断できないため、今はこのまま使います。
(アキレア=西洋のこぎり草の花言葉は「戦い」「治療」「真心」など)
◆私の考える回復 私が自分の何をもって「回復した」と感じているか書いてみます。ひとことで言うと、DV経験前のように(完全に同じではないけれど)普通に生きられるようになりました。具体例を挙げると、内容が2通りに分かれます。
◆回復の1つ目 生活の中で急にフラッシュバックして涙が止まらなくなることも、男性が怖くてフリーズしてしまうこともありません。ドラマや映画の暴力シーンもあまりひどくなければ見ていられます。暴力やDVという言葉に過剰には反応しなくなっています。ある時期には「私はDVサバイバーだ」という自我にすがらないと自分を保てない気がしましたが、とっくに必要なくなりました。私が私であることに過不足を感じません。
傷ついて弱った部分が癒され新たな知見を持てました。自分の意志も取り戻したし、何が好きで何が嫌いか今は自覚しています。つまり1つ目は、私自身の心の回復です。DVを経験する前よりむしろ丈夫になったと思います。
◆回復の2つ目 暴力をうけた相手である夫に対し、もう憎しみや恨みは感じず怒りをぶつけたい欲求もありません。過去のことと割り切れていますし、何なら記憶を夫と分かち合うことも出来ます。もちろんすでに暴力はうけていません。過去の暴力のためにコントロールされている感覚もなく、嫌なものは嫌だと意思表示できます。当り前に会話しますし、昨年の結婚記念月には私の希望で一緒に旅行しました。
このように2つ目は私と夫との関係です。私の場合は同居のまま関係を作り直しましたが、手段として離れる選択もあります。目的は同居する関係の継続ではなく暴力の無い関係になることなので、離婚も手段になりえると思います。
◆優先順位 私は1つ目を「自分自身の回復」と呼び、2つ目を「関係の再構築」としました。以前は2つ目を関係の回復と呼んでいましたが、元に戻るのでなく良くするという意味で再構築です。
そして自分自身の回復を優先に考えます。自分がボロボロの時に対人関係の再構築に取り組むのは困難ですから。それに相手と別れようと別れまいと、自分自身を回復させることはその後の人生に有効です。(以前は有効ではなく人生に「必要」だと表現していました。でも必要と言ってしまうのは押し付けなのでやめました)
◆共依存からの回復 共依存者は相手から離れられません。だから私が離婚も覚悟した時点で、内面は共依存からほぼ脱していたと思います。その時すでに私自身の回復が始まっていました。私の変化の影響なのかどうか不明ですが、夫も変化しました。結果として離婚することなく関係を再構築できました。
共依存から脱したなら、それは「自分自身の回復」と「関係の再構築」両方が進行しています。ただ関係が続く以上また共依存に陥る可能性は残るため、自己チェックは必要だと思います。
回復するもしないも本人の自由選択ですし、回復を他の言葉で表現しても構いません。何より回復の定義は他者が決めるのでなく、本人が自身に望むことだと思います。
それでも当事者が混乱している時には「こんな形やあんな形があります」と提示してくださることを、支援者や治療者にはお願いしたいです。