いつか愛せる

DVのその後のことなど

矢川冬さんがくださった感想へのお返事

 ブログ「その後を生きる、矢川冬の場合」の書き手である矢川さんが、私の古い著書を読んだ感想をあげてくださいました。ですのでこの記事は、私から矢川さんへの書きかけの手紙のようなものです。

yagawafuyu.hatenablog.com

 矢川さん、真剣に読んでくださって本当にありがとうございます。矢川さんの御本の感想を書きにくいと感じたとき「もしや」と思いましたが、やはり互いに悩んでしまうのですね。お手数をおかけしました。

 

◆共通項

 私が矢川さんに関心を持ったのは、いくつか共通項があるからだと思います。被虐待経験があること。時間をかけて自分の傷を癒してきたこと。経験を本という形で世に出したこと。ただし矢川さんが戸籍名変更の方法まで書かれた(伝えたいことはすべて書き終えたという印象)のに対し、私はあの本ではほんの途中までしか書けていません。

 

◆違い

 虐待をうけた年齢や相手がまったく違うこと。矢川さんが相手との関係を絶った一方、私は相手との関係を作り変えたこと。

 

◆私の主張

 当時すでにDVという言葉は認知されていましたので、私の主張はDVの要因や実態を語ることではありませんでした。それを紹介する本ならすでにありました。私は「人は変わらない」と、他者に決めつけるのは傲慢だと言いたかった気がします。もちろん変わろうとしない人は変わりませんが。ただ当時はそこまで明確にことばに出来ていませんでした。

今は私の考えが過渡期にあり「回復」という言葉に若干抵抗がありますが、まだ現状を書きます。私は「自身の回復」と「関係の回復」のふたつを主張してきました。このふたつはまったく別物です。自身の回復は誰にでも有効で、その点で矢川さんに共感したと思います。

 

(以下は、矢川さんの記事からの引用が青文字です)

 

まなさんの場合、夫とは性愛を含んだお互いの意思で人間関係を作っているので、DVを完全なる犯罪とは決めにくいところがありますね。

 はい。私はDVを「支配関係」と認識しています。暴力は振るう側が悪いのは当然ですが、支配関係ではなくなること=暴力も無くなり解決に向かいます。多分、そんな理屈を述べる専門家はいないと思いますが。下手な説明が膨大になるのは面倒なので乱暴な表現で失礼します。「私が支配されるのをやめればいい」という理屈が成立します。そこが親子関係との違いかも知れませんね。支配されるのをやめる方法のひとつとして、別れる選択肢も存在します。

 

まなさんが私の本を読むのが苦しくかつ感想が書きにくかった理由を探りたいと思います。実は私もそうでした。ご本を何度も読み直しブログの掲載が遅くなりました。

 理由はう~ん、そうですね・・・おとなの矢川さんと子どもの冬ちゃんのどちらに対すればいいのかわからないのかも知れません。自分が冬ちゃんの立場で読んだらまともな文章なんて書けないと思うので、おとな目線ではあるのですが。

私は過去に大勢のDV当事者をネット上で見てきました。手負の獣のように傷だらけで、他者に過剰に反応して攻撃的になる人も多かったです。(矢川さんもそういう時期があったと書かれていましたね)そういう状況にある人に、こちらが発するどんな言葉が攻撃になってしまうかわからない。そんな怖さを持ちました。ましてや子どものころに性虐待をうけた人の痛みが、私に本当にわかるはずはない。だから感想を書くのが怖かった気がします。

でもそう考えること自体が「矢川さんに失礼では?」とも考えます。とっくにそういう時期を乗り越えて来られた、自律したおとなでいらっしゃるので。でもおとなになっても、古傷が痛むことはありますよね。

 

共依存と宗教は私がもっとも避けてきたものだったのですよ。まなさんは、そのど真ん中にいらっしゃるのですね。知らなかったとはいえ、失礼しました。

 いえ、お気遣いなく。共依存は私も避けるべきものと考えているし、自分がそこから抜け出た一例として書いてきたし、ただ中にある人に参考にしてほしいのでこれからも書きます。

冬ちゃんのような大変な境遇から抜けられないときに、讃美歌を歌ってお説教を聞いても響かないのは当然だと思います。その時に性虐待を告白したとして、助けてもらえるかさらに傷つくか、賭けになってしまいますよね。

ブログのプロフィール欄に書いたように、私は現在はクリスチャンの自認はありません。ただの神様好きな人間です。これも乱暴な表現になりますが、「神に祈る=超ポジティブ思考」くらいに捉えていただければと思います。宗教の名目で戦争をする人のことは、私も理解できません。

 まだ書いてくださったことの半分もお返事できていませんが、私が今とてもワクワクしていることをお伝えしておきますね。何十年ぶりかで、自助グループを再開したような気分を味わっています。

共感したり、違いに気づいたり。相手を知ることで自分を知ったり。それは小さな痛みを伴うこともあるけれど、素敵な経験でした。あと何回かに分けて続きを書くと思いますので、ご迷惑でなければお付き合いいただけると幸いです。

 

謎はいつかほどけるかもしれません。傍観者としての私はいつでも知りたい、理解したいと思っていますから。

そう言っていただけてうれしいです。私自身も、子どもが性虐待をうけることに関してはまだ傍観者としか言えません。自分の経験に照らし合わせていくらか想像はできる。でも想像を超えるに違いないだろうこともわかる。

だから少しは理解したいと思ってブログやご著書を読ませていただいた面もあります。(いつ書けるかわからないけれど、続く・・・)