いつか愛せる

DVのその後のことなど

DV女性が「動かない理由」と「愛」

 下記記事の続きです。元は私の著書の感想を書いてくださったブロガーさんへの返信でした。でも私の記事がご負担になる可能性もあるので、通知が行かないよう直接のリンクは貼りません。

刺激をいただけて、自分の考えを整理するチャンスになったので続きを書きます。なるべくDVに関心の薄い皆様にも理解していただけるように努めました。青文字が矢川冬さんのブログからのコピー部分です。

 

1990年代に私が参加していたフェミニスト集団の女性センターの相談員たちは、DVの相談に来る女性たちが、

「夫の暴力から一時的にも非難するのがよい」とどんなに説得しても、理屈では分かっているのに結局夫の元にもどってしまうのよねと嘆いた。かたすかしの連続だという。「共依存」という言葉を初めて知ったのもこのころ。

「被害者は裏切る」と言われる所以ですね。動かなかったり動いても戻ったりする理由は大きく2種類あると思います。(矢川さんはご存知のはずの内容も含みます。私自身の整理と、ここを読んでくださる方にむけて)

 

◆離れない物理的理由 シェルターへ逃げるには、現在と過去のすべてを捨てなければならない。住まいや持ち物だけでなく、培った人間関係も収入を得る手段も、身内とすら連絡を取れないと聞きます。お子さんが一緒なら、誘拐の危険があるため学校にも行かせられない。なぜ悪いことをしていない方が、すべてを捨て犯罪者のように身を潜めなくてはならないのか。離れるのは「一時的」と言われても、戻れる保証はありません。行政の支援は最初から離婚目的の場合が多く、他の選択肢を持ちません。

◆離れない精神的理由 もうひとつが共依存と言われる部分だと思います。相手の心配をしてしまう。私も家出した際は、公共料金の引き落とし口座の通帳を書留で義母に送りました。そうしないとすぐ残高ゼロになりますから。後に、夫と同居はしていましたが全ての心配から手を放したことが、私の回復でした。「例え夫がアル中の廃人になって死んでも私の責任ではない」と。

これは私の場合ですが、相手から離れたくないのとはちょっと違います。共依存は「過剰責任行動」とも言われます。当時の夫をひとりにしたら、必ず世の中に迷惑をかける。怒鳴り騒ぎネットに脅しや痴れ事を書き、盗み壊し、通行人に暴力をふるい下手すると殺すかも知れない。その防波堤が自分だと考えたように思います。明確な自覚はありませんでしたが。(そういう立場の妻が逃げるのと逃げないのとどちらが世のため?)(スイカズラ=忍冬の花言葉は「無償の愛」「愛の絆」など)

              

まなさんの「いつか愛せる」を読んだ今は、DVにからむ共依存はそう単純なものではないと知りました。

お互いを理解したいと思えばこそ裂こうとする。肉片と血がまじりあい、その痛みに耐えかねてもだえ同化していく。それでは相手を損ねると思い何度も引き裂く。その繰り返される行為そのものが愛と呼べるものなのかもしれないと。

 単純ではないと認識を変えてくださりうれしく思います。「愛」は私もまだまだ考察中としか言えませんが、本物の愛は決して相手を不幸にはしないと考えます。(ここに書いたことはDV渦中のころではなく現在の私の考えです)

 

◆愛ではないもの 執着や独占欲は愛ではないし、手をかけ過ぎて相手を駄目にするのも愛ではない。手を放す勇気も愛の一部のはず。例えばまともな親なら子どもの自立を促すために手を放すように。中には「暴力も愛情ゆえ」と考える人もあるようですが、それが日常なら私はとても愛だとは思えません。相手を自分の感情の受け皿に利用しているか、あるいは相手を支配する言い訳。

◆愛 だからよほど成長しないと本物の愛は持てないと思いました。そんな愛を持つ人の心はとても豊かなはず。そういう人なら例え一方通行でも、愛する存在があるだけで幸せなのではないか。私も幸せになりたい。

本物の愛を持ちたいと思ったので「いつか愛せる」とタイトルにしました。愛せる相手に出会えるという意味でも、夫が愛されキャラに変貌するという意味でもなく、私自身が成長する決意表明です。愛するのに一番ふさわしいのは伴侶のはずだから「まずは夫だ」という感じでした。夫を愛するころには他の人をも愛せるはず。         

◆タイトル 「いつか愛せる」は様々な解釈をされるようでそれは構いません。本の読者さんが自分を愛せずに悩んでいて「タイトルに励まされた」と言われたこともありました。こういうことを何ひとつ書かずにブログのタイトルにするのは、書くのが難しかったとはいえ手抜きでしょうか・・・(多分、いずれまた続きます)