いつか愛せる

DVのその後のことなど

論文から共依存⑤第三者にはわからない

 昨日の記事を読み返して気付いたことを書いてみる。小西さんは論文内で、私が「シェルターを勧められたが受け入れることができなかった」と書いている。

うん、支援や研究をする立場からはそうなるよね。シェルターへ逃げることが正しいのにそれに従えなかった当事者、となる。

でも本人はそうは思っていない。私は当時混乱してグラグラ迷っていたとは言え、従えなかったのではなく、自分の意志で従わなかった。神様ではない支援者が、必ずしも正しいとは言えないことくらいわかる。落ち着いた今はなおさら思う。自治体の支援者は逃げる助けになってくれるだけで、こちらの人生の責任はとってくれない

 もしあのとき従ったらどうなっていたか。今の私に「逃げる方が正しかった」と言う方があるなら、お目にかかってじっくり話したい。

もちろん事情は個々に違うので、シェルターによって助かる人はあるし、必要な資源に違いない。命にかかわる緊急対応もあるはずなので、子どもへの虐待と同様に介入する判断はとても難しいと思う。

 

 また、私の状態を「客観視すれば完全に否定的で救いようがなく···」とある。うん、そう見えただろうことを私も認める。でも、見えることが真実かどうかは、やはり第三者にわかるはずがない。

別れるのが最善かどうかを判断するのは、支援者ではなく当事者。支援者にしてほしいことは、まず当事者が自分で判断できるようになるための助け

せっかく離れた当事者がまた元の場所に戻ってしまうことが多いのは、支援者の悩み。半強制的に引き離すからそうなってしまうのでは、と私は思う。

 幸いなことに、私はかろうじて自分の意志で支援者に従わない選択をした。そして共依存etc.を学ぶうちに、離れることや離婚も恐れなくなった。紙切れ1枚のことより互いが回復する方が重要だと考えたから。

そうしているうちに夫と私の関係も変化し始めた結果、離婚する必要が無くなった・・・🙁だから決めつけられることが嫌いなんだよね。

私は「人を否定すること≒勝手に決めつけること」が嫌い。それはこういう理由もあったのかなと発見した。

           

 ここからは、論文の執筆者さんに対する私の妄想。小西真理子さんは、他の支援者や研究者に遠慮しながら書いたのかな? 彼女は「共依存概念」が避難されまくっていたことに違和感を持ち、あるいは反発心を持って論文を書いた。でも

「彼女の共依存経験の中核にあることを示唆しているように思われる」とか、

「共依存と言われている関係性のなかにも肯定的な要素が内在する可能性が示されている」とか、何とも控えめな言い方。それが論文表現なのかな。

私には、すでにある研究結果や先輩方に配慮しているように思えてしまった。研究者としては若手だったろうし。

 もしかして、ご自身が「共依存状態だけれど良いと思えるカップル」をご存じなのかも知れない。でもそれは論文には書けない。論文ってエビデンスが必要だよね?

だから、本を出していた私を見つけて取り上げてくださったのかも知れない。小西さんが主張したいことと合致しているかどうかは微妙だけれど、エビデンスになれてよかった。

ただ10年前に書かれた論文なので、すでにご事情が変化したりご本人の意見も変わっている可能性もある。