いつか愛せる

DVのその後のことなど

フィギアスケートや宝塚と違って歩くこと

 昨日、夫が「見れば?」と見つけてくれた動画。フィギアスケートの「Fantasy on Ice 2022」羽生選手の滑りとインタビュー。うん、いいね。滑っても話しても見とれる。

元々アスリートと同時にエンターテイナーであったと思うけれど、プロになってエンターテイナー部分の自由度が増した感じ。アスリートでありながら表現力は完全にダンサー。

               

 彼のスケートを見てふと、子どものころ見た水中バレエを思い出した。どうしてだろ? スケートとはスピード感や迫力がまるで違うのに。水中バレエはスローな動きの優雅さがむしろ魅力だった。

ちょっと考えて気づく。彼のスケートにはほとんどステップと言うか、助走がない。歩く走る移動するという繋ぎ目のような無駄な動きがなく、すべてが美しい。人間の基本である歩くことの縛りがない。まるで水中のように自由に見えるからだと納得。

 そういうスケートをするためにどれほど苦労しているんだろうな。クラシックバレエにも似ている。バレエは重力から解放されているけれど、彼のスケートもそれに似ていて、歩くことから解放されている印象を持った。

歩くことって、普通の人間臭いんだなあ。

 

 私は宝塚の舞台を、一度だけ大劇場や東京宝塚劇場ではない、地方公演でも観たことがある。内容は本公演とまったく同じだけれど、ステージの設備が違う。普通の公会堂などには大階段も、セリ(←舞台の一部が上下する)も花道(舞台の脇道)もエプロンステージ(←舞台前面の銀橋とも言う)も無い。

 本公演ではトップスターはほぼセリ上がって登場し、暗転でセリ下がって退場となる。(花道から現れることもあるけど)つまり劇中の演技以外ではほとんど歩かない。

地方公演を観たとき「何だかやけに歩くシーンが多いな」と感じたのは、出入りのために歩くからだった。一瞬で現れたり消える方が幻想的なのに。

             

 で、歩くことの人間臭さに気付いた。エンターテイメントの世界では、普通の人を演じる時以外は歩く姿をほとんど見ない。

一方普通の人は、生きている間は(車椅子や歩行器を使おうとも)なるべく歩くべきなのかな。歩く動きが人間臭いということは、それは基本だからだよねと思った。