いつか愛せる

DVのその後のことなど

義母の余命宣告(2018年7月ごろの話)

 義母は私たちが声をかけても反応しないほど具合が悪くなった。好物のうなぎとメンチカツを少量ずつ持って行ったけれど、食べるどころではなかった。疲労骨折して痛がっていたのにレントゲンでは見つけてもらえず、病院に失望もしていたと思う。

 私は病院の相談員からも義実家のケアマネージャーからも、義父の行き先の決定を急かされてかなり切羽詰まっていた。義母に意見を聞かなくてはならないのに、話もできない。義父は足の指を切断した別の病院への通院の予定もある。しかもヘルパーさんがひとり退職して手が足りなくなった。

なぜこんなに一度に問題が来るのか。でも負けるもんかと歯を食いしばっていた。

 そんな時に病院から電話があり、外科の医師が義母の具合について話してくれると言う。珍しく平日の夜なのに、医師に会えるらしい。私は仕事の後、夜の7時過ぎに病院へ行った。

外科医は義母の容体を説明するというより、家族の意志をを聞きたかったらしい。義母は「肝臓の数値が悪い」「腸閉塞を起こしている」「肺に水もたまっている」という。つい先日までは「もうすぐ退院」と言われていたのに。

 「腸の検査や手術を希望するかどうか」でも体力的に手術に耐えられる保証はないし、治る保証もない。さらに「急変した時に人工呼吸などで延命をはかるかどうか」

ショックだった。それらを聞かれても私に答えられるはずがない。夫に相談してその週のうちに電話することになった。

          

 翌日。ずっとずっと具合が悪くて両親と会っていなかった夫が、今回は何としても行かなくてはと思ったらしい。昼休みに夫から電話があり「もう病院にいる」という。夫と義母はこんな感じの会話をしたらしいが、聞いた私の記憶も曖昧だ。

「死ぬのか、生きるのか」

「生きる」←さすが義母だ。

「どんなに辛い思いや恥ずかしい思いをしても生きたいか」

「それは嫌だ」←これも義母らしい答え。

 

 それから夫は義父とも話をして「すべてお前に任せる」と言われたらしい。例えそのことを義父が忘れても、夫は受けとめてずっと忘れなかった。

 その後に医師と会い、承諾書を書いたと言う。つまり義母の治療はしない。あとは本人の体力だけで残りの時を生きる。義母の余命を聞くとやんわり「1ヶ月位」と言われたらしい。その上で夫は私に「絶対に諦めない」と言ったと思う。

夫のこの日、久しぶりに飲酒して少し荒れた。

 私はケアマネージャーに報告の電話で「義母は検査や治療はしない」ことを伝えながら涙が込み上げ、話すのに苦労した。ケアマネは義父の退院のためのカンファレンスは予定通りですと言った。

私は義父が退院してどこへ行こうと、もう義母には会えなくなるのかと思った。