いつか愛せる

DVのその後のことなど

続「赦しに興味はないですか?」

「赦しに興味はないですか?」に載せた、私が17年前に書いたメールの一部について。いつもは常体で書いていますが、何となく今回は敬体で書きます。

 赦しに興味をもつのはクリスチャンくらいかと思ったので、意外に読んでいただけて喜んでいます。特にわかりにくそうな下線の3行目を解説させていただこうと思います。

 最近気付いたことで、まだ整理中なのですが。私にとって「ゆるすこと」=「積極的に傷を手放すこと」だったのです。

こういう話題は普通のサバイバーには二次被害になりかねませんが。

 

 サバイバーは直訳すると「生き残った人」ですが、何らかの被害をうけた人に敬意を表した呼び方です。この場合はDVや性被害にあった人のことで、あえて「普通の」とつけているのは、私とメール相手の小松原織香さんが「赦し」に強く興味をもつ少数派のサバイバーだったからです。

 なぜ赦しに関する話がサバイバーにとって二次被害になるのか。精神が(あるいは肉体も)ズタズタでそこから抜け出せずにいる時に、しばしば周囲から「ゆるしてあげなさい」とか「忘れなさい」と言われるからです。それが回復するためだからと。

 簡単にゆるせるくらいならサバイバーと呼ばれる必要はありません。出来ないことを強制され、出来ないという罪悪感まで植え付けられます。そういうことが二次被害(言う側にとっては二次加害)です。たとえ善意でも傷口に塩を塗る暴力です。

 そのため、サバイバー同士であっても赦しについて話し合える相手にはなかなか出会えません。相手を傷つけるかも知れない話題なので避けます。(小松原さんも当時からそれをよくご存知でした)

 当時の私は教会に通っていたので、赦しについて話そうと思えば相手はいくらでも居ました。でも同様の経験のない人には、赦しにくさの理解が困難です。もし「ゆるさないとね」等と正論を言われたら、自分が二次被害をうけます。相手がどんな立派な人でもそれは関係ありません。

ですから私は赦しに関する本を読んだり掲示板に思いを書いたりして、大抵ひとりで追求していました。

一方、小松原さんは哲学者のジャック・デリダの研究を始めておられました。教えてくださった文章が下記です。

赦しは、罪のない人や悔唆した人を赦すのではありません。それは、罪あるかぎりでの罪ある人を赦さなければならないのです。すると、極限においては、そこから、赦しの錯覚状態と言えるにちがいないような錯覚的な経験が生じもするわけです。つまり、現に自分の犯罪を反復しつつあるにちがいないような犯罪者を赦さなければならない、ということになるのです。そこにこそ、赦しのアポリアがあります。
ジャック・デリダ『言葉にのって』206-205頁)

 

 難しいです! しかも資料が少ないのでなおさら素人の私には解読できません。

ただ何となくわかるのは。このデリダさんが言っているのは、神様が行う赦しだなということです。人間に出来るものではない。それでも「人間にも出来る一瞬がある」とは思うので興味を感じます。

 17年前に自分が書いた「私にとって「ゆるすこと」=「積極的に傷を手放すこと」だったのです。」というところも、もっと整理して書きたいと願っています、が。

難しいんです〜〜〜〜〜😅 17年もの間に発酵してくれていればいいのに、凍結されていたのですかね。