私がDV経験の後に夫をゆるしたいと願ったのは、高尚な思いではなく自分のために他ならない。ただ当時は教会に通っていたから、ゆるすのが「常識」のような思い込みもあったかな。
とにかく私は楽になりたかった。それに加えて、人を憎んだり恨んでいる人間であり続けたくなかった。感情を取り戻したあと非常に激しい怒りが湧いて、自分の内面がどす黒く汚れたような気がしたから。
(念のため。まだ傷の生々しい被害当事者に「ゆるす」話は二次加害になる可能性があるので、相手に聞かれた時しか言わない)
「当事者は嘘をつく」の著者である小松原織香さんの場合、「相手を殺してしまいそうで怖い。殺さないためにはゆるすしかない」と考えた。このことは昔私が聞いただけでなく、著書でも公にされている。
(小松原さんは本名なので、私が個人的にブログに書いて差し支えないか心配になった。メールで問い合わせたらあっさり承認をいただけて感謝)
以前は私と小松原さんはまったく違う理由で「赦し」に興味を持っていると思ったけれど、実は似ていると考えを改めた。ゆるせない相手が存在するということは、とてつもなく大きな荷物を背負うことだから。
心に大きな傷があるだけで生きにくいのに、恨みや憎しみという荷物まで背負い、それが長引けば肉体まで蝕まれる。だから重荷を降ろすことが、私がゆるしたかった理由。
小松原さんも、その荷物を降ろさないと相手を殺しそうだから手放したかった。私の勝手な想像だけど、きっと目的は同じ。自分を楽にしたい。
ということは、ゆるすのは自分を癒すことの一部。ただその一部は癒しの入り口の方ではなく、仕上げに近いところにあると思う。それほどにゆるすのは難しいから。
小松原さんの場合は、まだのたうち回るような状態で相手に「すべてを赦します」と告げている。相手はその意味を理解は出来ない。宣言したことに大きな意義はあったと思うけれど、彼女はその後もまだまだ苦しんだ。
一方私の方は、ゆるしたい思いがあってもなかなか本気で取り組めなかった。後に気づいた理由は、自分の本にも書いた。
「自分を被害者だと思っていると、特殊な権利を保有している気分になる。それは加害者に真摯に謝罪してもらう権利、尽くして癒してもらう権利、極端な場合には復讐する権利など」実際には遂行できない頭の中だけの権利なのに、手放したくなかった。
この存在もしない権利を手放すことは、ある程度傷が癒えてこないと無理だった。だから私の考える癒しとゆるしは同時進行の両輪のようなもの。
ところで私は、もうとっくに被害者であることをやめて荷が軽くなっている。同時に「被害者」「加害者」というラベリングが嫌いになった。私は被害者ではなくて人間なので。