いつか愛せる

DVのその後のことなど

続2「赦しに興味はないですか?」

「痴漢抑止バッジ」なるものがあるらしい。いいなこれ。かつて毎日通学時に悩まされた身には喜ばしい時代の流れ。

痴漢抑止バッジ、炎上したその後 応援も寄付も増え配布無料に ↓

https://news.yahoo.co.jp/articles/5bb003e14659ab00856a69c04be96c6e250435e9

 あのころの私がこれで痴漢を防げたかどうかはわからない。殺人ラッシュの中でバッジが相手の視界に入るとは限らないから。それに私が通った学校はアクセサリーやマスコット類は一切禁止だったので、バッジがあってもつけなかったかも知れない。

 でも大きな意味はある。痴漢という犯罪が存在していることを世間が認めていること、被害にあっているのは自分だけでないと知ることは、その子の力になると思う。

 

 ところで。被害という言葉を見ると、私の脳みそはザザザザ~~~っと、あちこちから記憶を引き出してくる。被害者・加害者という言葉は嫌いだけど、被害から脱出あるいは回復することや、赦しが私の重大な興味の対象。

 昨年の10月にsakiya1989さんというブロガーさんとやり取りしたことも思い出した。(やり取りしたというより、素人の私が多分研究者でいらっしゃるsakiya1989さんに詰め寄ってお相手していただいたという感謝な状況)

 あの時に、ゆるす対象は相手(加害当事者)なのか、罪そのものかで混乱したままなので、整理することにチャレンジ。

小松原織香さんの場合「相手を殺したい。殺さないためにはゆるすしかない」状態。相手の存在を消したかったわけだから、ゆるす対象は相手。

では私は? 私も夫をゆるしたはず。だって一緒に暮らせている。存在を憎むほどの相手と何年も暮らすという拷問には、私は耐えられない。ゆるすとは、まずは相手が存在する事をゆるすことと言える。

 では罪(この場合は暴力あるいは性暴力)そのものをゆるすとは? 罪だけゆるして本人をゆるさないってどういう状態? 

例えば「あなたが私にしたことはもう忘れていいし私も忘れる。でも殺したくなるから私の前に現れないで」と思う人。純粋にそう思う人、いる?

DVの場合は相手に執着されたくないから「私を忘れて」ということがあるけれど。それは憎しみより恐怖が優っているだけ。

どうも私には「罪をゆるし且つ人はゆるさない」という状況が浮かばない。

 ただし司法が介在すれば成立する。相手が裁かれて罰金を払う、投獄される、あるいは解決金などで示談になる。するとその人は社会的にはゆるされ、且つ被害当事者には憎まれているかも知れない。この場合、被害当事者がゆるすかどうかは別問題。

 やっぱりゆるす対象は「人」だと思う。そして「人」をゆるしている時はその人の過去の罪もゆるしている。ただし罪をゆるすのはその罪を肯定することではない。悪いことは悪いまま。

 

 Sakiya1989さんの「〈性暴力〉は「被害者のリアリティ」に基づいて」いるから「加害者Bの身体にも精神にも何ら刻み込まれていない」ので「加害者Bは赦しの対象になり得ない」という解釈に私が同意できない理由を、少し説明出来そうになってきた。例えばこんな時。

「車を発進させる際に、後ろにいた人の足をタイヤが踏んだ。踏まれた被害者にはリアルな痛みがあるが、運転者の心身には何も刻まれていない」

この場合と似ている(虐めとも似ていると思う)。運転者に感覚があろうと無かろうと、怪我をさせた事に対して刑事責任を問われる。

 

 少しだけすっきりしたところで痴漢の話に戻る。私は過去にあった痴漢たちをゆるしているのか? 考えたこともなかった😆 はっきり言って考える対象ですらない。相手は個人ではなく不特定多数だったし、個人を憎みようもない。

痴漢という罪を私は今も憎む。何十年経っても思い出せば腹が立ち、どんなひどい状態だったか訴えたくなる。でも、私は彼らを人格ある人間として捉える気がない。

それはちょうど痴漢をする人たちが、被害当事者を人間扱いしていないのと似ている。彼らにとって対象者は「肉」や「物」でしかなく、こちらが感情や意思を持ち苦しむ人間であるとは考えない。

 もし仮に、痴漢のうちの誰かが「あのときは申し訳なかった」と本気で謝って来られたら? そのとき私は相手をひとりの人間として意識しゆるすと思う。でも互いにどこの誰だか知らないので、それはあり得ない。

 だから私が彼らを人間と考えないのは、ちょうどいい復讐かも知れない。相手に何のダメージも与えないのにざまあみろ😤と思えた自分を、クスッと笑える気がする。