たまにはこのブログの本来の目的のネタを書こう。私はDVからの回復を書きたくてブログを始めた。
小松原織香さんの著書「当事者は嘘をつく」を再び手に取る。どうしてこんなに共感できる箇所が多いのだろう。私と小松原さんの経験はそれほど似ているわけではないのに。
まず、互いに当初から「ゆるし」に関心を持っていたことが大きな理由のひとつ。一方で小松原さんは研究者としての道を歩み、私は生活者として生きた。
私は支援者との関わりが少なかったので、小松原さんによってDVや性暴力の被害当事者が支援者にどのように捉えられているかを知った。
- 回復するだけがサバイバーの人生だろうか。 私(たち)は、「心の傷が癒やされるべき存在」として、矮小化されていないだろうか。(86ページ)
- 形骸化した「当事者の語り」はかれらの知の体系に埋め込まれる。(98ページ)
- 「当事者の言葉」を支援者は「回復」の言説に回収しようとする。かれらには私(たち)の魂の声が聞こえないのだ。(112ページ)
今の私が気になるのはこの辺り。どうしてそこが引っ掛かるのか考えた。
私は「支援者に回復させられる」のは御免だと思うし。奥深いところまで理解されないのは仕方ないとしても「理解しているフリをされる」のは御免だと思う。
否、理解しているフリよりも、本当にわかっているつもりの場合の方がタチが悪い。
何となく、上から引っ張り上げるような支援を連想した。私も小松原さんも「自助」という対等な関係から生まれる回復を体験している。
もし自助ではない支援があるなら、それは本人の下に回って押し上げるようなものではないのか。上から引っ張るより、はるかに力のいる仕事になる。
私がDV情報ウォッチャーだった20年くらい前に、ネットで見つけた川柳がある。
癒やされて たまるか 加害者 ぶっ殺す
どういう被害をうけた人が書いたのかは不明。ただ強烈で印象に残った。癒やされたくない、そんなことより復讐したい、といった思いだろうか。
当時の私は自分の回復に懸命だったので、この川柳を見て失礼ながら「困った人だなあ」と思ってしまった。とんでもなく余計なお世話。
日本の支援者は、こういう人を「癒して回復させなくては」と考えるのだろうか。それはなかなか報われなさそうに思う。
何事によらず、よくわかっている人ほど謙遜になるのではないだろうか? だから私は小松原さんが水俣に赴く時の覚悟に感心した。
- 私が心に決めたことは「失敗したら、謝ろう」ということだけだった。(163ページ)
すごい勇気。自分が当事者ではないことは「わからない」と認め、それでも向き合おうという覚悟を持っているから。
それは自分の古傷を公にすることより、もっとさらにエネルギーのいる作業だと思う。