無駄な努力をやめよう。私は自分の言葉を使わないと書けないし考えることも出来ない。
「当事者は嘘をつく」の中で、著者の小松原さんは「支援者に、当事者の世界を理解させねばならない」から「かれらと同じ知の体系を私も習得」したことを書かれた。気持ちはわかるが真似は出来ない。
私は今後も自分のままで書く。当時の著者と違い支援者とは関わりがないので、論駁する必要がない。それに「わかってほしい」思いは当時の著者と同じだが、もう20年その気持ちを飼い慣らせたので通じない人がいても害をうけない。
sakiya1989さんは、通りすがりの一般人に詰め寄られてご迷惑かなと思ったのに、お付き合いくださって感謝している。
以下は2度目にいただいたリプライ↓への、書きかけのような拙い返信。
〈赦す〉という言葉を私が用いたことに対して、manaasamiさんがどうしてそこまで気にかかるのか、私には正直なところよく分からない。とはいえ、読者がこのように妙な引っかかりというか気になっているケースは、私の数少ない経験に照らし合わせてみれば、書き手が気づいていない視点を読み手が持っている可能性があり、検討に値するはずである。
視点はきっと違うのだけど、私は自分の視点をうまく説明できず困っています。
そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう。
(sakiya1989「読書前ノート(11)」2022/08/31)
先日はこの部分を私がまったくわかっていなかった。この文脈で<赦す>が出た理由が下記のご説明で理解できた。
私が述べているのは、〈赦し〉の対象は〈性暴力〉であって、加害者として実在する彼ではない、ということである。常識的な観念では、被害者Aが加害者Bを〈赦す〉という形式を取ると理解されよう。その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであり、〈赦し〉の対象は加害者Bであることになる。しかしながら、〈性暴力〉は「被害者のリアリティ」に基づいており、「被害者のリアリティ」は被害者Aしか持ち合わせておらず、それは加害者Bの身体にも精神にも何ら刻み込まれていない。とすれば、そもそも加害者Bは〈赦し〉の対象になり得ず、〈赦し〉の対象は、被害者Aが自分の身体と自分の内奥の精神に刻み込まれた〈性暴力〉という観念に他ならない。その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであるが、〈赦し〉の対象は加害者Bではなく、被害者A自身の持つ〈性暴力〉あるいはそれが基づく「被害者のリアリティ」である。かくして、その〈性暴力〉という対象を〈赦す〉ことができるのは被害者自身に他ならない、ということになる。このことが、小松原さんの著書から私が読解したことであった。
ここで新たな視点もいただいた。「赦す対象は加害者Bでなく性暴力なのか?」3つに分けて考えた。
①著者が相手に「すべて赦す」と伝えたとき
②「当事者は嘘をつく」の中での解釈
③私自身の赦しの考え方
sakiya1989さんは②でお考えのはず。書評なら②のみを考えるのが正しいだろうけれど、私の感想には①と③が混じる。
まずは①。そのとき対象が性暴力なのか彼なのか考察はされていないと思う。理由は著者がまだ研究者ではなかったこと。もうひとつは、殺さないためには赦すしかないと思い詰めている人間にそんな分析は出来ないこと。
②と③は無期限の宿題とさせていただきたいが、②について今思うことを少し書く。
sakiya1989さんのご説明は論理的に納得できる。でも性暴力を観念とする部分に同意できない。虐めの構図と似ていると思うが、加害側に何らかの行為がなければ被害は成立しない。そこをもっと考察したいが、そうするといつまでも返事を書けないので今は断念。
私の腑に落ちていないせいか、著者がそう捉えているとも思えない。探るために再読と著者の赦しに関する論文を読もうかと思う。(論文も既読だが、理解困難な部分は読み飛ばしてしまったので)
③についても少しだけ書くと、私は赦す対象は加害者Bとしか考えていなかった。なので赦しの対象が相手ではなく性暴力という考え方は、私にとってヒントかも知れないと思う。
この考えで思い浮かんだ言葉が「罪を憎んで人を憎まず」
だから赦す対象は人でなく罪ということか? でも憎むのは罪でも(←犯罪にならない罪を含む)その罪を犯すのは人なので、赦す対象は人である気がする。性暴力が加害当事者自身に何も刻まれていなくても、それが罪にならないとは(法律上は無罪でも)考えられない・・・論点が赦しでなく罪になってしまった。
やはりまだ腑に落ちていない。感覚的には相手を憎むもの(自身の感覚というより被害当事者の一般論。そうでなければ相手を殺したい等の発想は出ない)
気付いてはいたが、赦しは感覚や感情とは別物ということがより明確になった。
私は赦しについて何年も前から書きたいと思っていたが、自分の経験は書けても知識が皆無では分析できない。私が赦しに関心を持つのは、自分の経験を分析して人に伝わるように書きたいから。とてつもなく難しい気がしてきて、若干おののいている。
次に私が「赦せるのは(神を除けば)被害者だけ」と書いたこと。そろそろお気付きいただけたかも知れないが、これは私の考えであり本から導き出してはいない。
神が赦す主体なのは私にとって当然なので、前回の文脈には必要ないのに付け足した。ご説明をいただき申し訳なかったが、私には勉強になったのでお骨折りは無駄ではないと思っていただけるとうれしい。
性犯罪は司法でゆるされることがあることを認識はしていた。今、投獄され刑期を終えたら司法でゆるされたことになるのか? という新たな疑問も湧いたが、話がズレるので省く。
恩赦など司法の赦しを赦しと捉えられないのは、私の中に残る被害者根性ゆえかも知れないので・・・これも今回は省く。
sakiya1989さんは書評を書いていらして、私はその感想を書いている。感覚で選んだ言葉だった「書評」と「感想」の使い方はどうやら合っていた気がする。私は「当事者は嘘をつく」の感想はいくらでも書けるが、書評は書けない。
最初から違いを意識すれば良かったと思う。意識しても合わせることは出来ないが、予めお断りしておけばもう少しsakiya1989さんのご負担を減らせたかも知れない。
私と著者の体験には共通点があるため、私は自分に当てはめて読む。それは性暴力のことだけでなく、赦しを考えたことなど諸々を含む。書籍内にあったように、著者も自助グループ等で他者の話を自らに当てはめる経験を強く何度もされ、恐らくそれもご自身の記憶に自信を持てない原因のひとつになった。
この4行もやはり書評でなく感想だと思いつつ、中途半端な文章を読んでいただき、また考えるヒントをいただきお礼を申し上げます。