いつか愛せる

DVのその後のことなど

義父の介護に関われなかった時期

 介護の話の続きをしばらく書けなかったのは、義母が亡くなった後から翌2019年の記録がぐちゃぐちゃで読むのがキツいから。夫が2018年のクリスマス会の日に義父の入所施設に行って以来、私たちは何ヶ月も行っていない。行けなかった。↓この記事の続き

この年の大晦日さえ、私たちは自分が怪我をして、あいている病院を探して並んでいた。お正月もそれどころではなかった。

 

◆私の職場での立場 夫がどんどん壊れてきたが、不調の原因は不明で病院には行ってくれない。いつ動けなくなるかわからず、電話がある度に私は青ざめて会社を早退した。有給休暇も使い切った。何度か会社と話もしたし、クビになることも覚悟した。無収入になっても家族の命には変えられない。当時の上司はずっと私を庇ってくれていたらしいけれど、やがて言った。「会社を活用した方がいいよ。あまり迷惑かけないように心配しても切られるときは切られるから」と。(でもありがたいことに今もクビは繋がっている)

 

◆訪問診療 なぜずっと気づかなかったのか。病院へ行けないなら訪問診療を利用すればいい。私は高齢者が利用するものと思い込んでいた。夫は病院へ行くのは嫌がったが「来るならいい」と了承した。私は希望を感じて医師を探して予約をとり、病歴というよりは数々の症状を書き記して事前に郵送した。それを見た医師は、いくつかの病名を推測して電話をくれた。

でも希望は何度も砕かれた。夫は肉体の不具合だけでなく鬱っぽさもあったため、当日になって「今日は会わない」と言い出した。嫌がる患者の診察は不可能。3度ドタキャンさせられて、私はもう予約をとる勇気を失った。次の手が見つからず誰を頼ればいいかもわからなかった。(カンパニュラの花言葉は「後悔」「誠実」「感謝」など)

            

◆地域の支援 この時期にはさまざまな支援を探した。高齢者や障害者や失業者のための支援はあっても、私と夫が使える支援が存在しなかった。私はずっと義両親の件でも夫の件でも、人手がほしかった。そうすれば私は仕事を休まずに済む。でも人手がほしければ民間を頼るしかなく、高額な料金がかかる。私が休む方がお金の負担が少ない。

役に立つ人もあるかも知れないので書いておく。夫の訪問診療をしてくれる病院を探していた時、地域生活支援センターを教えられた。最近のホームページを見ると、縦割りでたらい回しになる福祉行政を変える「断らない」窓口と、継続して寄り添う搬送型支援だと書いてある。

私の場合、電話で夫の体調を説明すると「あんしんホットダイヤル」を勧められて終わってしまった。他にもっと切実に困っている人がいて忙しそうだった。でも後日フォローの電話をくれた。そのころには状況が少し変わっていたのでお世話になることは無かったけれど、電話の対応は親切な印象だった。

 

◆義父のこと ずっと会いに行けなかったけれど、義父から文句は聞いたことがない。義母が亡くなったことを知ってから、何を考えて日々を過ごしたのだろう。そのころは施設からも事務的な連絡しか無かった。料金は振込だったろうか。毎月丁寧な明細と領収書が送られてきた。その時くらいしか義父を思い出す余裕も無かった。

 それを思うと、今も色々あるとしても当時を思い出して書けるほど余裕があるんだなあと認識する。