いつか愛せる

DVのその後のことなど

日常に落ちている幸せを拾う

 昨日、私が夫の前髪を切った。彼はよほど気が向かないと床屋や美容室に行かないので、のびきった髪を邪魔がっていた。チャンスだと思い「切ろうよ」「おカッパは嫌だ」「パッツンにしなければいいんでしょ」

◆自宅床屋 美容師さんを真似て前髪を1束ずつ持ち上げ、100均の工作用ハサミで斜めに切る。私は自分の前髪も普段から切るので慣れているし、夫は癖毛なので曲がっても誤魔化せる。頭頂部付近は短めにしてあっという間に終わり。本当は全体も切ればもっと髪質も良くなるのにと思うけれど、無理強いはしない。

出来上がった前髪を鏡で見た夫は「おお!寺尾聰に似ている」「へえよかったね」 

               

◆もしひとり暮らしなら 実はこれまでに「このまま夫が死んでしまうかもしれない」と思う危機を何度も経験した。今もその不安がすべて消えたわけではないし、同年代で寿命を全うする人だって存在する。

もしそうなれば、私はひとり暮らし。かつてのDVの真っ只中なら、消極的にではあるけれど願ったことを思い出した。ひとりになれたらどれだけ楽だろうと。

◆ひとりの不安 ところが今は、大きな不安が実感を伴って迫ってくる。私ひとりになったら、こんな雑談の機会も無くなる。生活空間に存在するのは自分ひとり。今日は寒いなと思ったとき「寒いね」と言い合うこともない。押し売りや強盗が来た時の対応も、ネットの不調時も困る。

ひとりで過ごす時間は嫌いではないし、むしろ私には必要な時間。でも、有名な俳句を思い出した。「咳をしても、一人」なんて。私がひとりを好むのは、ほとんどの時にひとりではないからだと自覚する。

◆幸せの種類 もしかして、昨日の自宅床屋のように何の変哲もないやり取りが「幸せ」なのかな。華やかさも美しさもない地味な日常は、きっと失ってから気付くようなタイプの幸せ。

今日もやたらと食事がおいしい。レトルトを利用した八宝菜を作って中華丼にしただけなのに、食べ過ぎ注意。食べ過ぎる心配なんてそもそも贅沢。飢えずに温かいものをとれることが幸せ。