いつか愛せる

DVのその後のことなど

振り返ったら恵まれていた

 色々な人の介護話を読んでふと思いました。もしかして私が義両親の介護をした経験は、とても恵まれていたのではないか? もちろん苦労はしました。一歩間違えれば介護自滅で地獄を見たはずです。でも振り返ると嫌な記憶にはなっていません。

(プルメリアの花言葉は「恵まれた人」「気品」「親愛」など)

            

◆苦労を数えてみる 義両親がほぼ同時期に要介護状態になった/途中から夫も体調不良で動けなくなった/シングルインカムで低収入なのに何度も仕事を休んでクビになりかけた/実子でなく嫁の立場で役所へ行くので不正を疑われることがあった。

あとは、もう思い出せません。

◆良かったことを数える 義両親と友人のような関係になれた(←これだけでもすごいと思います。同居せず適度な距離感があったおかげ)/義実家は我が家から自転車で10分の近距離/義両親の預金が底をつく前に家を売却でき介護費用が賄えた。

他にも数えきれないほどあります。

◆タイミング 介護が本格的になる前のことです。自営業で経理をしていた義母の体力が衰えて通勤できなくなったころ、私はちょうど派遣切りにあって失業しました。そのため義母のかわりにいつでも金融機関への用事をしに行けました。(私は銀行員の経験があり得意分野です)

そのころ私は正社員の職を探したものの、超不景気で特に事務仕事は絶望的でした。週に3日のパートについたのは妥協でしたが、おかげで義父の引退まで義母の手伝いを継続できました。何が幸いするかわかりません。

◆要介護の進行具合 義両親の状況にも助けられました。義母は肉体が先に弱りましたが、最後まで精神はしっかりしていました。軽い認知症になった義父が長く自宅で生活できたのは義母のおかげです。義父は若いころは「怒ると赤鬼みたいだった」と聞きますが、最晩年は好々爺でした。認知で困ったことは少なくないけれど、不穏になったり乱暴になったことはありません。

◆夫の状況 夫がいつどうなるかわからない状況は一番きつかったです。途中からはほぼ私ひとりで動きました。それでも義両親に関する重要な決定はしてくれましたし、いよいよ私の身が危ないと感じると「介護から手をひけ」とまで言いました。義両親を見捨てることなど出来ませんが、私は自分の体を優先して自滅を避けるよう切り替えました。関連する過去記事をいくつか貼っておきます。

義実家から手を離すチャレンジの記事はたくさんありますので、よろしければ「介護と実家の話」のカテゴリーからどうぞ。

◆偶然の幸い 災い転じて福となったことは他にもあります。義母が入院してしまい、義父を家でひとりにしておけず途方にくれている時でした。介護タクシーの運転手さんのミスで、義父が車椅子ごと階段から落ちてしまったのです。そして義母と同じ病院に搬送されました。義父は打ち身程度で異常はなく、私は1箇所の病院にだけ行けばすむので負担はかえって減りました。タクシー会社の保険が費用を全額負担してくれます。義母とふたりの行き先が決まるまで入っていてもらえたし、ふたりの最後の対面も果たせました。当の運転手さんは誠実で、無料の送迎などで助けてくれました。

◆運命を恨まない その時にはわからない運命の不思議がたくさんあります。渦中は本当に辛いのですが、それでも運命を恨むばかりだとバチが当たりそう。自滅せずこうして生きているだけで私には奇跡です。細かな苦労もブログのネタにできて誰かの参考になったかも知れません。

 次は私の両親も要介護に入ってきています。義実家ほど近距離ではないし、私の体力が以前より衰えている分は不利です。でもきっと乗り越えられるでしょう。大好きな聖句を久しぶりに思い出しました。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ書41章10節)

チャーハンを食べて介護の難しさを思う

 お昼に冷凍チャーハンを食べてふいに気付きました。義母の存命中、ヘルパーさんが使ったチャーハンはきっとこれだ!

 

◆義母の不満 当時、私は毎週末「お昼は何がいいですか?」と電話してから義実家に通っていました。昼食後はいろいろな雑務や片付けもしたけれど、義母は私がおしゃべりの相手をする方を喜んでくれます。

そのとき複数回聞いた愚痴のひとつが、ヘルパーさんが用意してくれるチャーハンの盛り方。平たいお皿に平たく乗せられているとのことでした。「せめてこんもりとさせてくれれば美味しそうに見えるのに」と。チャーハンといえば丸く山盛りにして提供されるのが普通です。義母ははっきりものを言うタイプでしたが「食事を作ってもらってありがたいのに文句言えないわ」と言っていました。 

             

◆不満が起きる事情 ヘルパーさんは決められた時間内に決められた家事や事務(引き継ぎの記録など)をするので、忙しいのはわかっています。私は「時間が足らなくて盛り方に気がまわらないんですかね~」となだめていました。義母は食べ物にはこだわるタイプで、食品の衛生面についても私より心配性でした。(お祖父ちゃんは和食の板前さんだったそうで)

ヘルパーさんが入る時間は決められていて、食べる直前に料理するわけにはいきません。早めに作って次の仕事に向かわなくてはならず、料理は食事の時間まで置いておくことになります。出来た直後の方が美味しいと思いますが、大抵は冷めてから食べていたようです。

◆配慮だったかも知れない 私は今回食べて知りました。チャーハンの説明書きには「皿に平らに盛ってラップをせずレンジにかける」と書いてあります。多分、熱の通り方を均一にするためでしょう。ヘルパーさんがお皿に平らに盛っていたのは、意味のあることでした。それでも、後から山盛りに整えるのにいくらも時間はかからない・・・

また思い当たりました。ヘルパーさんは「食べる直前に温め直すかも知れない」と考えた可能性もあります。もし温め直すならそのままで正解です。

◆細かすぎる家事の行き違い 家事のやり方は家によって千差万別でしょう。初めのころはヘルパーさんがお風呂掃除の後、多分換気のために窓をあけてくれていました。でも義母は自力で窓を閉められなくなっていたのです。それを聞いて私は連絡用ノートに「お風呂の窓は閉めておいてください」と事情を書きました。理解できれば互いに気持ちよくお付き合いできます。

もしそのころ私が冷凍チャーハンのことを知っていたら・・・でもやっぱり伝えるかどうか迷ったろうなあ。細かすぎて。ヘルパーさんと義両親の関係を悪くしたくないし、そのヘルパーさんがどういうタイプの方かもわかりませんでした。

 今日食べた冷凍チャーハンは美味しかったです。義母は味に文句を言ったのでなく、(板前の娘らしく)食べ物に配慮がほしかったのだろうなあ、としみじみ思い出しました。

◆余裕のないお別れ 思い出してヘルパーさんやケアマネージャーさんにお礼を言いたい事柄もたくさん出てきます。良くしてしてくれた方が何人もありました。本当は義両親が入院してお付き合いが終わった時点で、ちゃんとお礼を言っておきたかったです。でもあまりにも余裕がありませんでした。ご挨拶もしなかったばかりか、いつが最後にお会いしたタイミングだったかさえ記憶にありません。介護職の方には、そういうなし崩し的なお別れも多いのかも知れません。

だから書いておきます。介護の仕事をする方々の小さなモチベーションアップになってくれますように。「当時は伝える余裕がなかったけれど、ありがとうございました!」

土地から始まって地球の記憶に辿り着く

 買い物に行く通り道、大きな家が取り壊されて更地になりました。広いなあ。2018年に夫の実家を売却のため更地にした時は「建物が無いとこんなに狭く見えるのか」と驚いたものですが。その4倍くらいありそうな広い土地がぽっかりと空いています。

 以前は近所で建物の取り壊しがあっても、それは私にとって単なる街の新陳代謝でした。でも義実家の取り壊しを経験してからは、そこに住んでいた人に想いを馳せます。

◆近所の広い土地 その土地に家があったころ、庭で猫の親子を見ました。ペルシャの血が入っているかと思われる長毛の子猫が5~6匹。母猫と遊んでいる庭はまるでメルヘンの世界でした。前を通る度に見るのが楽しみでしたが、1ヶ月もしないうちに1匹も見なくなりました。どこかに貰われて行ったのかな。その後あの庭で猫を見ることはないので、預かっていただけかも知れません。

メルヘンに似合うあの洋風な庭もなくなったけれど、家を建て直すのかな。それとも売却されて持ち主が変わるのかな・・・

◆マンションの隣 我が家のあるマンションの隣の土地も、少し前から空き地です。借景を堪能させてもらえていたので、庭ごと無くなって残念です。大きな柿の木のある庭と瓦屋根の平屋で、我が家のある3階の廊下からの眺めが素敵でした。

住人の方と会ったことはありませんが、ここ数年の春と秋、つまり窓を開けている季節ですが。よく、お爺さんの苦しそうな咳払いが聞こえていました。あのお爺さんが亡くなったか、あるいは施設に入居したのか。旧家と一緒に消えていったという印象です。

◆土地にある記憶 どちらの更地もいずれ新しい家が建つでしょう。古い家と住人を思うとちょっと切なくなります。それは、その場所にある元住人の思い出が消えるような気がするからでしょうか。思い出は場所でなく人間の中にあるものですが、人間の記憶は結構頼りないです。形あるものに頼りたくなるのは私だけですかね?

◆物にある記憶 つい先日、茶箪笥の奥から紅茶のティーパックがひとつ出てきました。生前の義母がお裾分けしてくれたブランド品です。5年以上経っているけれど捨てずに飲みました。そうして分けてもらった物が無くなっていくのも寂しいです。もらった衣類などが古くなって捨てる際にもまた切なくなりそう。ましてやいずれ自分の両親が亡くなったら、どれだけ物に執着したくなるか。

             

◆地球の新陳代謝 そろそろ私の妄想スイッチが入っています。(あまり長生きする気はないので)長くても30年後には私も夫もこの世にいません。その時には何も残さなくていい。

ああ、世に出した本は国会図書館でかなり長く保存されるのでした。すでに1冊は保存済みですが、やはり続きを書きたいです。でも保存が長くても、人々に読んでもらえるのは精々数十年でしょうか。

だから私が生きた痕跡は21世紀中でほぼ終わり、地球の新陳代謝の仲間入りをします。地面の養分になる葉っぱのような消え方がいいです。あるいは空気に融けているような消え方。誰かの記憶に残るというより地球の記憶の細胞のひとつのよう。そうなるために言葉を使うのかも知れません。生きている間に、なるべく栄養をたっぷり含んだ葉っぱになれますように。

 そういえばブログって、書き手が亡くなったりして放置されたらどのくらいの期間残っているのかな?

介護の中で決定や選択する責任のこと

 前回の記事を書いたとき、もしまだ義両親の存命中に私がひとりになってしまっていたら、と想像した。その可能性も無いとは言えなかった。仮に私が未亡人だったら、夫の両親のお世話をする義務はないけれど私の性格では投げ出せなかったろうと思う。

現代は親の介護は嫁の義務というわけではなくなってきている。地域や世代によって違いは大きいけれど、自分の親は自分がみるという考えに移行しているらしい。でも私はすでに義両親と親しい関係ができていたので、縁を切るのは無理な話。

 

◆介護の困難 私は同居していないから苦労の一部しか経験しなかったけれど、それでも介護は大変だった。義父と義母はほぼ同時期に要介護状態になり、途中で夫も原因不明の不調で倒れた。夫と義母が同じ日に不調で、どちらといるべきか逡巡したこともあるし、夫に付きそうために義母の転院スケジュールをドタキャンしたこともある。それでも、夫の存在がない方が楽だと思ったことはない。

◆決定と選択 現実に動くことと同様に重要なのが、「決定する」「選択する」こと。判断力がしっかりしているうちは何でも当人に委ねるけれど、段々そういかなくなる。どの病院に行き、どんな治療を選択し、どの施設を選ぶかetc. 家族が判断することが山のように続く。それを嫁の立場の私が決めることなんて出来ない。だって命に関わることだらけだから。回復の見込みがなくなるころには、どの点滴をいつまで続けるかといったことまで書類にサインを求められる。すごく露骨な表現をすれば、老衰で亡くなるタイミングを家族に決めさせられることがある。

             

◆嫁の立場で選択すること 小さな選択なら私もたくさんした。義実家を売る際に、残す荷物と廃棄する荷物を選ぶのは辛かった。持ち主のどんな思い入れがあるのか私は知らないのに、時間も無く多くを捨てたから。

何をどう選択しても、後悔をゼロにするのは不可能。ただ大きな選択に関わらずにすんだことを感謝している。私は夫の両親の命に関わることでの決定と選択を、背負わされることはなかった。

◆実子の役割 夫はただひとりの実子として、選択や決定の義務は完全に果たした。動けなくてスケジュールを延期したことは何度もあるけれど、絶対に外せない重要な時には、不思議と動くことができた。

病床の義母に司法書士が会いにきて実家の売買契約をしたときも、主治医からやんわり余命宣告や手術をするか問われたときも、義両親それぞれの看取りやお葬式のときも。おかげで私は、義両親の命にかかわる責任を負わずにすんだ。

◆選択を背負うべき人 夫はひとりっ子なので、助け合いができないかわりにひとりで決定できる点で話が早かった。兄弟で意見が食い違って大喧嘩になった人の話も聞く。

色々な事情で両親の介護を、配偶者やヤングケアラーと呼ばれる若者に手伝ってもらう場合。大切な決定と選択の負担までは、背負わせないでほしいと思った。それは要介護者に一番近いおとなが背負ってほしいし、そうあるべきだと思った。

義父の介護に関われなかった時期

 介護の話の続きをしばらく書けなかったのは、義母が亡くなった後から翌2019年の記録がぐちゃぐちゃで読むのがキツいから。夫が2018年のクリスマス会の日に義父の入所施設に行って以来、私たちは何ヶ月も行っていない。行けなかった。↓この記事の続き

この年の大晦日さえ、私たちは自分が怪我をして、あいている病院を探して並んでいた。お正月もそれどころではなかった。

 

◆私の職場での立場 夫がどんどん壊れてきたが、不調の原因は不明で病院には行ってくれない。いつ動けなくなるかわからず、電話がある度に私は青ざめて会社を早退した。有給休暇も使い切った。何度か会社と話もしたし、クビになることも覚悟した。無収入になっても家族の命には変えられない。当時の上司はずっと私を庇ってくれていたらしいけれど、やがて言った。「会社を活用した方がいいよ。あまり迷惑かけないように心配しても切られるときは切られるから」と。(でもありがたいことに今もクビは繋がっている)

 

◆訪問診療 なぜずっと気づかなかったのか。病院へ行けないなら訪問診療を利用すればいい。私は高齢者が利用するものと思い込んでいた。夫は病院へ行くのは嫌がったが「来るならいい」と了承した。私は希望を感じて医師を探して予約をとり、病歴というよりは数々の症状を書き記して事前に郵送した。それを見た医師は、いくつかの病名を推測して電話をくれた。

でも希望は何度も砕かれた。夫は肉体の不具合だけでなく鬱っぽさもあったため、当日になって「今日は会わない」と言い出した。嫌がる患者の診察は不可能。3度ドタキャンさせられて、私はもう予約をとる勇気を失った。次の手が見つからず誰を頼ればいいかもわからなかった。(カンパニュラの花言葉は「後悔」「誠実」「感謝」など)

            

◆地域の支援 この時期にはさまざまな支援を探した。高齢者や障害者や失業者のための支援はあっても、私と夫が使える支援が存在しなかった。私はずっと義両親の件でも夫の件でも、人手がほしかった。そうすれば私は仕事を休まずに済む。でも人手がほしければ民間を頼るしかなく、高額な料金がかかる。私が休む方がお金の負担が少ない。

役に立つ人もあるかも知れないので書いておく。夫の訪問診療をしてくれる病院を探していた時、地域生活支援センターを教えられた。最近のホームページを見ると、縦割りでたらい回しになる福祉行政を変える「断らない」窓口と、継続して寄り添う搬送型支援だと書いてある。

私の場合、電話で夫の体調を説明すると「あんしんホットダイヤル」を勧められて終わってしまった。他にもっと切実に困っている人がいて忙しそうだった。でも後日フォローの電話をくれた。そのころには状況が少し変わっていたのでお世話になることは無かったけれど、電話の対応は親切な印象だった。

 

◆義父のこと ずっと会いに行けなかったけれど、義父から文句は聞いたことがない。義母が亡くなったことを知ってから、何を考えて日々を過ごしたのだろう。そのころは施設からも事務的な連絡しか無かった。料金は振込だったろうか。毎月丁寧な明細と領収書が送られてきた。その時くらいしか義父を思い出す余裕も無かった。

 それを思うと、今も色々あるとしても当時を思い出して書けるほど余裕があるんだなあと認識する。

実家の母と過去と将来と年の瀬

 昨日は私の実家へ行ってきた。会社で集めた来年のカレンダーを、自転車の荷台からはみ出すほど積んで届ける。風邪が治りかけの母は、手も足も痛くて立ち上がる度に「どっこいしょ」とゆっくりゆっくり。常に元気だった母も、弱ってきたなあ。

             

◆石油ストーブとヤカン 「躓くので危ないから」と使うのをやめていた石油ストーブが、父の入院で危険が無くなり復活していた。ふたをあけたヤカンが乗せられ、部屋の加湿をしている。「このヤカンは⚪︎⚪︎家(←夫の実家)のものだよ」「へえ、そう。使ってもらえて良かった」

義実家を取り壊す直前の片付けを、母とその友人に手伝ってもらった。「使えそうなものは全部持っていって」と頼んで、布団や大量のコート類などは工場勤務の人に託した。捨てずに済んだ義実家の物が生きているのはちょっとうれしい。かつて義実家の玄関に飾ってあった鉢植えも、私の母が大きく育ててくれた。

 

◆カレンダー 隣に住む外国人の一家にもカレンダーをあげる予定でいた。小学生くらいの女の子がいるので、選んだのはディズニーの絵柄の大きなカレンダーと、ピーターラビットの卓上カレンダー。ちょうど女の子が庭から見えたので、声をかけて渡した。ご両親はまだ仕事らしい。

 

◆母の話 行く度に母は、家や土地のことなど先々の話で堂々巡り。母の願いは私と弟に半分ずつ残すことらしい。家を半分には出来ない。「住んでいる弟が相続すべきでしょ」と私は言う。すると「でもこの先お金が足りなくなったら売らなきゃならない」と言う。そう言われても今は何も決められない。遺言書というものは、分ける財産が明確でないと書きにくいと思う。だから「お母さんの気持ちだけ遺言にしてくれればいいよ」とすすめる。気持ちを残してくれれば、生きている者はなるべくそれを尊重すればいい。じゃあ「パソコンに残すかもしれないから、もし急に倒れたらパソコンも見てね」とのこと。

 長いこと私はDVやら義実家の介護を言い訳に、自分の実家に滅多に行かなかった。それは母にとってちょっとした心の傷になった気がする。どこまで取り返せるだろう。自分の体力を気にしながらやらねば。

 

◆お節ときりたんぽ 私がいる間に届いた宅配が2つ。親戚からきりたんぽと比内鳥の鍋セット。もうひとつは初めて注文したお節。厚手の段ボール箱がふたつ残る。

かつての義母を思い出した。北海道の親戚から届いた大量のトウモロコシに「年寄りふたりでどうするの」と嘆いた。私は早々にトウモロコシの皮を全部むきゆでて、大きな段ボールは畳んでゴミに出せる状態にした。義母の力では無理そうだったから。

もう私の母にもこれは大仕事だ、やらねば。段ボールを畳んでガムテープできっちり押さえ自転車置き場へ運んだ。あとはゴミの日に出すだけ。中身のおせちはお裾分けをもらった。

 

◆豆もち 母のいなかから届いていた豆餅を今年ももらった。ありがたいな。母が生きている間だけの特典と言える。これから先、私の周囲の人は減る一方だと思ったら寂しくなる。いやいや減るだけにしなければいい。直接の知り合いでなくても、ブログで少し知っている人だってたくさん出来たではないの。

 

◆年の瀬 そうして迎えた大晦日。掃除も一部しか出来てないなあ。下手にこれから動くとゴミが増えて出せないし・・・とまた自分に言い訳。

来年は本を出す目標のために、もっともっと動くんだ。自分の生活のためだけでなく、実家にもさらに関わらなくては。

 そんな現状ですが、読んでくださる皆さまありがとうございます。来年もよろしくお願い致します。皆様に良いことがたくさんありますように。

寒さで思い出す計画停電と石油ストーブ

 本格的に寒くなってまだ体が慣れない。この寒さで、3.11の後に経験した計画停電を思い出した。輪番停電とも呼ばれたっけ。

 

◆計画(輪番)停電 電力節約のため、区域を分けて1日に2時間ずつ順番に強制停電。私は地域の停電が2時間も続いた経験は初めて。駅も薄暗かったし、道路の信号が消えているのは怖かった。

夜の時間帯にあたる日は、料理もできないだろうと仕事帰りにコンビニへ。どこも品薄で買えたのはおにぎりと缶詰。2時間の間、自宅は寒くて真っ暗。夫がワンセグを使い、小さなニュース画面を懐中電灯のかわりにした。後にランタンを買ったけれど「いざとなったら近所の総合病院に行って暖をとろう」と話した。病院や駅には自家発電がある。

 

◆地域による不公平 都内に住むどこかのお偉いさんの鶴の一声で、東京23区は計画停電から除外されたと聞く。一番電力消費が多い地域をまるごと除外できるくらいだから、本当は足りていたはず。原発反対と言われないために国民を騙していませんか?

場所によって不公平感が大きかった。病院が停電で大変なのに道路をはさんだ向かいは停電無しで、パチンコ店が煌々と営業中だという話も聞いた。

          

◆義実家の暖房 私たちはまだ元気でも、義実家は暖房がエアコンしか無く寒さが心配だった。夫がネットで石油ストーブを探すと、早くも品薄で1万2千円した。これでひと安心かと思ったら、義母が言う。「ノンちゃんとお父さんが心配で怖くて使えないの」

確かに、愛猫ノンちゃんはストーブを知らず、ジャンプが得意だからダイブする可能性もある。義父も躓きそうで危ない。結局一度も使わず、後に数千円で売ったと思う。停電の寒い中、ノンちゃんはずっと不機嫌な顔で毛布にくるまっていたらしい。誰も風邪をひかなくて不幸中の幸い。2人と1匹が倒れたら目も当てられない。

              

◆私の実家の暖房 私の実家は23区内にあり停電を免れた。しかも普段からよく石油ストーブを使っていた。😓義実家と逆なら助かったのに。

とは言うものの、すでに私の実家も父の足どりが危うくなってから石油ストーブを使わない。でも今は長らく父が入院しているから、今年の冬はどうだろうか?

 石油ストーブは上にものを乗せられるのがいい。ヤカンや鍋を乗せて温めながら部屋を加湿できる。ポットは不要でいつでもお茶を入れられるし、煮込み料理にコンロが不要。

お餅や乾燥芋を焼いて食べるのも楽しみだったなあ。トースターで焼くより美味しい気がする。うん、暖房というより色々な使い方のできる炎製造機。