いつか愛せる

DVのその後のことなど

土地から始まって地球の記憶に辿り着く

 買い物に行く通り道、大きな家が取り壊されて更地になりました。広いなあ。2018年に夫の実家を売却のため更地にした時は「建物が無いとこんなに狭く見えるのか」と驚いたものですが。その4倍くらいありそうな広い土地がぽっかりと空いています。

 以前は近所で建物の取り壊しがあっても、それは私にとって単なる街の新陳代謝でした。でも義実家の取り壊しを経験してからは、そこに住んでいた人に想いを馳せます。

◆近所の広い土地 その土地に家があったころ、庭で猫の親子を見ました。ペルシャの血が入っているかと思われる長毛の子猫が5~6匹。母猫と遊んでいる庭はまるでメルヘンの世界でした。前を通る度に見るのが楽しみでしたが、1ヶ月もしないうちに1匹も見なくなりました。どこかに貰われて行ったのかな。その後あの庭で猫を見ることはないので、預かっていただけかも知れません。

メルヘンに似合うあの洋風な庭もなくなったけれど、家を建て直すのかな。それとも売却されて持ち主が変わるのかな・・・

◆マンションの隣 我が家のあるマンションの隣の土地も、少し前から空き地です。借景を堪能させてもらえていたので、庭ごと無くなって残念です。大きな柿の木のある庭と瓦屋根の平屋で、我が家のある3階の廊下からの眺めが素敵でした。

住人の方と会ったことはありませんが、ここ数年の春と秋、つまり窓を開けている季節ですが。よく、お爺さんの苦しそうな咳払いが聞こえていました。あのお爺さんが亡くなったか、あるいは施設に入居したのか。旧家と一緒に消えていったという印象です。

◆土地にある記憶 どちらの更地もいずれ新しい家が建つでしょう。古い家と住人を思うとちょっと切なくなります。それは、その場所にある元住人の思い出が消えるような気がするからでしょうか。思い出は場所でなく人間の中にあるものですが、人間の記憶は結構頼りないです。形あるものに頼りたくなるのは私だけですかね?

◆物にある記憶 つい先日、茶箪笥の奥から紅茶のティーパックがひとつ出てきました。生前の義母がお裾分けしてくれたブランド品です。5年以上経っているけれど捨てずに飲みました。そうして分けてもらった物が無くなっていくのも寂しいです。もらった衣類などが古くなって捨てる際にもまた切なくなりそう。ましてやいずれ自分の両親が亡くなったら、どれだけ物に執着したくなるか。

             

◆地球の新陳代謝 そろそろ私の妄想スイッチが入っています。(あまり長生きする気はないので)長くても30年後には私も夫もこの世にいません。その時には何も残さなくていい。

ああ、世に出した本は国会図書館でかなり長く保存されるのでした。すでに1冊は保存済みですが、やはり続きを書きたいです。でも保存が長くても、人々に読んでもらえるのは精々数十年でしょうか。

だから私が生きた痕跡は21世紀中でほぼ終わり、地球の新陳代謝の仲間入りをします。地面の養分になる葉っぱのような消え方がいいです。あるいは空気に融けているような消え方。誰かの記憶に残るというより地球の記憶の細胞のひとつのよう。そうなるために言葉を使うのかも知れません。生きている間に、なるべく栄養をたっぷり含んだ葉っぱになれますように。

 そういえばブログって、書き手が亡くなったりして放置されたらどのくらいの期間残っているのかな?