いつか愛せる

DVのその後のことなど

義父の誕生日も義母の命日も忘れる

 昨日は亡くなった義父の誕生日だった。買物の途中で「もうすぐ命日だからお花を買って帰ろうかな」と思い出した。でもすでに当日なのにまだ先だと勘違い。さらに買おうと思ったお花も買い忘れた。「考えることがあり過ぎだわ」と自分に言い訳。小さなボケも重なるともう健忘症😓かも。

 少し前に起きたトラブルからずっと私の心身はヨレ気味。(おかげで体重は減ってラッキー🎵)実はそのトラブルの後に、義父が私の夢に出てきてくれた。私たちを心配し、夫を𠮟りつけに来てくれたのだった。

その時の義父は私が知っている介護中の弱弱しい好々爺ではなく、しっかりして厳しい表情。義父は剣道や居合切りの有段者だったから、真剣なときにはまる武士か軍人のような佇まい。

そういえば昔、夫が言ったなあ。「親父は厳しい」「俺が人殺しでもやろうとしたら刀で袈裟がけに斬るんじゃないか」

袈裟がけにバッサリ・・・。若いころは庭の竹を斬って練習していたらしい。その日本刀は現在は我が家にある。

        

 義母はどうしているのだろう。夢の中で「一緒に暮らしているのですか?」と聞くと、「今あいつは悲しんで言葉も出ない」と教えてくれた。ああ、天国に行った義両親までこんなに心配をかけて泣かせている。私たちだっていい歳なのにごめんなさい。

 でも実は少し誤解があった。夫が昔のように無茶苦茶に無責任に暴れたと思われてしまっていたので、私は「天国にいても全て把握できるわけではないんだなあ」と考える。そして誤解を解こうと説明した。「むしろ褒めてあげてください」と。

義父は事態を理解しにくいのか考え込んでいたけれど、私は「ずっと気にかけていただいてありがとうございます。これからも見守ってください」と見送った。

 そんなことがあって間もないのに健忘症になった私。1日遅れで今日お花を買ってきた。別に義父がお花好きというわけではないし、むしろ好物の月餅でも買ってあげようかと迷った。でも月餅を買うと、結局は私たちのお腹に入るよね。せっかく体重減ったのだからやめた。黄色いカーネーションを買って飾った。

 あれ??? ここまで書いて···やっと、やっと、思い出した! 義母の命日も過ぎている!

あ~あ。生活に振り回されすぎだよ😥 (義理の)お父さんお母さんごめんなさい。そろそろ落ち着けると思います。うん、落ち着いて生活できるよう天国でも祈ってください。お願いします!

近しい人が去った喪失感

 長らく介護関連の記事を書いていないけれど、時々は書く予定。先日、夫と義両親のことを話した。

きっかけはGS(グループサウンズ)の曲を聞いたこと。流行ったのは昭和40年代だろうか。私もリアルタイムでは記憶になく、最近になって夫に聞かされている。

ザ・テンプターズの「おかあさん」という曲は、恐らく病気か何かで亡くなるお母さんが、我が子に向かってたったひとこと「いい子でいてね」と言い残す内容。

         

この歌詞、今ならメンタル系に詳しい人に「いい子っていう言葉に縛られる」とか何とか叱られるかも? 時代の変化は大きくて、現在の歌謡曲とはずい分違う。

 以前、夫はこの曲の「母さんがくれた形見」の部分を、ふざけて「母さんがくれた」と歌っていた。でも自分の両親を亡くしてからは、この曲が染みるらしい。

私の両親は存命中のため、「いつかわかる」「両親を失うことは俺が先に知ってる」と言われた。確かに。

 でも私も夫の両親が亡くなる時に、大きな喪失感を味わった。そりゃ実子の感覚と同じはずはないけれど。義両親は私にとっては年長の友人のような存在。

しかも介護の途中からは夫の体調が悪く、ほとんど動けていない。義実家や病院に行った回数は私の方がはるかに多い。義母とたくさんおしゃべりしたので、夫が知らない話も聞けた。

多分、亡くなる1年くらい前から、私は義両親に会いに行く度に「遠くない時期に失ってしまう···」という寂しさを抱えていた。義実家に向かうこの道も、買い物を頼まれたこの店も、いずれ来ることは無くなる。いつもそういう切なさを振り切って通った。

古い家の売却が決まってからは、何度も無言で家に語りかけた。「長いことこの家庭を守ってくれてありがとう」「もう少しだけ頑張ってね」と。

人にも場所にも物にも、すでに存在しているうちから追憶を感じる私は、時間をかけてじんわりジワジワと寂しがる。きっと自分の両親を見送る時は、義両親の時よりもう少し大きな喪失感を、もう少し長く深く感じるのだろうと想像する。自分のルーツが消えるような感覚もある。想像だけでもすごい寂寥感。

 夫は私と感覚が違う。両親を見送った後「生きている意味が無くなった」と感じるそうだ。別に両親のために生きてきたわけではないだろうし、マザコンでもファザコンでもない。誰かのために生きなくてはという感覚が無くなったのだと思う。(一応、私の存在も忘れてはいないらしいけれど)

 また思い出す。私を可愛がってくれた親戚や先生etc.が亡くなるたびに「愛してくれた人がまた減った😂」と思ってきた。この歳になるとすでにそう多くは残っていない。だから夫の言うことも何となくはわかる。愛してくれた目上の人だけでなく、憧れた有名人も、しばらくともに過ごした友人や同僚も、減っていくばかり。

厭世的にならないためには、年下の友達を作っておく方がいい。でも友人は必要に迫られてつくるものじゃないよね。小さな縁も大切にしたい。

母は終活に熱心

 先日の鎌倉旅行のお土産を持って、久しぶりに自分の実家へ行った。父は入院していて弟は仕事で、いるのは母だけ。かつて義母が「ご両親が元気なうちにたくさん会いにいってあげてね」と言ってくれたことを思い出す。

なんとなく「お義母さん、今日は自分の実家へ行きますよ~」と、天に向かって呟いた。

 陽気の良い時期は自転車がいい。もう存在しない義実家は10分で行けたけれど、私の実家までは50分程度かな。それでも、自分の実家に日帰りできるのは恵まれている方だよね。

幹線道路には川が1本と交差する道路が2つあり、3つの坂道を越える。若いころは自転車を立ち漕ぎして頑張ったけれど、もう無理。今は電動アシスト付き自転車が私の味方。

             

 私の母はかなり前から終活に勤しんでいる。断捨離のおかげで、たくさんある収納場所には余白が増えてきた。私の母なのにマメだ(いえ😓あの母の娘なのに、私がXXX)

以前にも聞いた説明をまた聞かされた。「お父さんの通帳はここで、自分の通帳はここ。現金は金庫で、金庫の鍵は・・・」実は信用していた知人に現金を盗まれたことがあり、結構慎重になった。

「保険の書類はここで、延命処置を拒否する内容はこの手紙に書いてある」

 そこまでしても、色々不安があるらしい。貯金が足りなくなれば家を売らなくてはならないこと、名義は父だから母の一存では動かせないこと、私たちに迷惑をかけたくないから、動けなくなったら地方の安い施設に入れてほしいこと、etc.

弟は「その時になってから決める」と言って相談相手になってくれないので、私に話したいらしい。いざという時、面倒がらずに動いてくれるのは、弟より私の方だと思っている様子。(経験値もあるし)

それにいくつになっても我が子が心配らしく「あんたは苦労したから晩年には少し楽してほしい」とこぼす。

 でも家のことは、今住んでいる弟に決めてもらわないとね。だから「お母さんの希望だけ遺言に書いておいて」と言っておく。母名義の財産はないので、通常の遺言書にはならないと思う。でも「こうして欲しい」と書いてくれれば、いざという時にそれを見て動ける。私がいちいち弟と相談して承認をもらわないと動けないのでは、揉める可能性だってあるし時間がかかる。

 あの世代の女性に多いのかなあ、母も義母も同じ。自分の夫よりは長生きして面倒を見なくてはと思っているし、単純な自分の希望はまったく口にしない。母は私と弟が将来どうするのかを聞かないと、自分のことを決められない。(ああ、共依存の香りがする

いやまずお母さんの希望を言って。家を売るのかどうかに私の意向はいらない。仮に私に残すものが何も無くなっても、それはお父さんとお母さんの責任じゃないから。例え私が将来生活保護をうける身の上になったとしても、だよ・・・くらいに言わないと駄目っぽい。

それに、私はもうすぐ宝くじの1等を当てるから!😊

母と義母と、旅行と帰郷と最後の対面

 自分が新婚旅行以来31年ぶりの夫婦旅をしたことで、親世代の外泊や帰省を考えた。

私の母は出身地が遠くても毎年帰郷したし、子育てが終わってからは友人との旅行や外出もする。ただし夕飯を作る時間には急いで帰宅した。食事の支度は誰でも出来るからゆっくりすれば? と何度か勧めたけれど聞いてくれない。

 一方義母がひとりで外出したところは見たことがない。世代の相違なのか、私の母も義母も、家族を置いて出かけることに大きな抵抗がある。

義母は独身のころよく山歩きをしたと聞くので、出不精ではない。山歩きの他に好きなのはタンゴ🎵だとか。義父と踊ったこともあるのかな。まだ介護が始まる前にお勧めしたことがある。「タンゴのコンサートチケットを取りましょうか?」「休日なら私がお留守番してお父さんの夕飯の支度しますよ」と。

            

すると「帰りの時間が遅くて暗くなるのが嫌」だという。確かに、義実家は川沿いの人通りの少ない場所にあるけれど、そんなに怖いかな。若いころから平気で夜道を帰宅した私とは大違い(ナンパや痴漢にもあったけど)

 それで「一緒に行きませんか?」と言ってみた。私はタンゴに馴染みはないものの演奏やダンスを見るのは好きだし、義母を送ってから私が家に帰ればいい。

でもやっぱり「時間が遅いから」とか「体力が」とか···😅もはや外的理由でなく、本人が自分を縛っていると判明。

 家業が忙しかったころ、せっかく近所まで来てくれた友人と会うのを断ってしまったことがあると聞いた。それきり2度と会えずに義母は後悔していた。

義母の出身地は一時間ちょっとで行ける都内にもかかわらず、長いこと帰省もしなかった。両親(私の夫の祖父母)のお見舞いで一度だけ会ったのが、どうも私たちの結婚式以来だったよう。

 そのせいか、晩年になって私に言ってくれた。「ご両親が元気なうちにたくさん会いに行ってあげてね」

義母がどんなに忙しくても、まったく行けなかったとは思えない。義父はそれを嫌がるタイプではなかった。実は「弱った親を見たくない」「どう接していいかわからないから」のが理由だと話してくれた。

ああ、そういう感性の人もいるんだなあと思った。そう言えば、義母が亡くなる前の義父は同じような感覚だったかも知れない。弱った義母を「見たくなかった」と言ったっけ。

 会いたくない気持ちも尊重したい。ただ、待っている側の気持ちはどうなのかなあ。お祖母ちゃんは会いたかったろうし、義母もそれはわかっていて悩んだはず。

 もし私が夫より先に動けなくなって入院した場合、どう思うかな。寿命が近づいて枯れたような姿を見せたくない思いも、きっとある。痛みや苦しさやその他で、もはや自分らしい言葉も出せなくなる可能性だってある。

それでも、もし夫が動けるのにまったく来なかったら? 捨てられたと感じて寂しいと思う。そう思うので、義両親にどうしても最後の機会に対面してほしかった。

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 先日、初めて旅行の記事を書いたら、読者さんが増えました。あの手の記事は滅多に書かなくて、普段の記事はこんな感じですよ〜😓大丈夫ですか?

 このブログの趣旨の一番は「DVからの回復」で、次くらいに「実家や介護」の話です。他は私の脳内と同じで、どんどん話がワープしてまとまりない雑記でございます。

親戚中でただひとり

 介護の話の続きを書こうとしたけれど、その時期の記録がグチャグチャで気が滅入る。今回は義父の家系の話を書こうと思う。

義父は10人兄弟だったらしい。なぜか家庭運の極端に薄い兄弟だった。その10人兄弟の次の世代では、同じ苗字を名乗る男子はたったひとり。むろん女子が名乗っても良いけれど、存在せず。たったひとりの男子が、我が夫という状況。

 10人もいて次の世代が夫ひとりって、どういうこと? と思った。10人のうちのひとりは若死だったそう。ひとりだけ極端に頭がよく独学で東大に合格したのに、授業料を払ってもらえなかった。入学出来ず絶望したらしい。事情は知らないけれど、夫の祖父は芸術家だったから、学問に価値を感じなかったのかな? その秀才はほぼ自殺に近い状態だと聞く。

 他の男性の兄弟では、結婚して先方の商売を継ぐため養子に入った人がいる。つまり苗字が変わった。他に独身を通した男性が3人だったかな。

女性の兄弟は、結婚したものの相手が早死にしたり、相手に裏切られて離婚したり。ひとりだけ他家に嫁いで女の子を産んだ。もちろん苗字は違う。

そんなわけで、結婚して家庭を維持していたのは10人のうち3人だけ。うちひとりは養子に出た人だし、ひとりは嫁に出た人。しかも女子しか生まれていない。

 だから苗字を継いだのは夫の父ひとりだけ。というわけで、夫は親戚中でたったひとりの男子だった。しかもひとりっ子。何かの呪い??先祖が悪いことした? 

          

 結婚後にそれを知り「もしかして私、責任重大なのかな」とチラッと思った。でも幸い、この苗字を残すことに誰もこだわっていない。地方では名家でなくてもあと取りにこだわる人がいると聞くけれど、それは無かった。

 DVの中で子どもを持たないと決めたことから、私が産まないと「この家系は途絶えるんだなあ」と思った。でも夫がそれをまったく気にしていない。お墓にも関心がない。(義両親と一緒にお墓参りした思い出はあるけれど執着がない)

少し前に言っていた。「呪いなら俺が終わらせてやる」

うん、そうだね。祝福は千代で呪いは三代まで続くと聞く。なぜかというと、三代の呪いでその家系はだいたい滅びるかららしい。

とはいえ、私は自分が呪われたとは思っていない。夫も否定的な意味で「終わらせてやる」と言ったわけではない。もし呪いがあるなら、行き先が無くなって空中分解すればいい

 ちなみに私は、ある時期に流行っていた霊能者の呪いの話は大嫌い。人を脅すことで儲けているように見えたから。もしそういう人にこの状況を話せば、ドヤ顔で呪いを連呼されそうな気がする。🙁余計なお世話だわ。

義母が亡くなったことを伝えた

 少し久しぶりに介護の話の続き。義母の火葬が済んで以降、夫は不調が続いた。精神的にも不安定だし再飲酒もしていた。義母の最後の時に間に合わなかったことが、かなり尾を引いていた。前回のお話はこちら↓

 ところが平日のある日、急に動き出した。2018年の12月20日と記録している。仕事中に夫から何度も着信があり、「親父のところに行くから場所を教えろ」と言う。義父はその年の8月に施設に入っている。でも夫は動けない日が多くて、まだ一度も行っていなかったと思う。

ものすごく不安だった。外で倒れたりしないだろうか。そもそも夫が飲酒しているだけで私は不安でたまらない。でも言っても止まることはないので、電話で施設の場所を説明する。酔っているのでなおさら説明が難航した。

 幸いにも夫は無事に帰宅したし、後から施設の様子を話してくれた。義母が亡くなったことを、義父に伝えたという。突然思い立って会いに行った目的はそれだったのか。

義父はあまりショックは見せなかったという。あの最後の対面のときから、覚悟はあったと思う。

 いつまでも隠すより伝えて良かった。義父は夫に「ちゃんと墓に入れてやってくれ」「いつかは自分も入れてくれ」と言ったらしい。

                

 たまたまその日は、施設のクリスマスパーティが行われていたという。急に尋ねた夫もそこに参加し、カラオケを歌ったり一緒にケーキもご馳走になった。家族の飛び入りも歓迎してくれるありがたい施設だった。

 写真の加工が雑で申し訳ない💦義父も夫が酔っているのは気付いたはずで、もしかしたら心配もしていたかも知れない。でも笑顔で写っている。かぶっているのは施設が用意してくれたサンタ帽子。

夫は赤ら顔。あごマスクしているけれど、まだぎりぎりコロナ禍に入る前。面会の家族にはマスク着用をお願いされていたため。

役割から解放される寂しさ

 いつものスーパーでレジ待ちの行列に並び、ふと目の前のペットフードのコーナーに目がいった。義実家の愛猫ノンちゃんが生きていたころ、ここでもよく買った。大袋のカリカリと、レトルトのウエットタイプと、削り節も。あとトイレ用の砂も。

           

 あ、ノンちゃんが食べていたカリカリはこれだ。銀のスプーンのおさかなづくし。でも微妙に袋のデザインが違う。どんどんマイナーチェンジするんだなあ。

レトルトの方は種類が多すぎてもうわからない。義母がいつも「ノンちゃん、スープのご飯よ」と言っていたのはどれだろう。ノンちゃんはチキンでなくて魚好みだった。

 ノンちゃんの食欲が落ちてから「削り節なら食べてくれるの」と言われて、毎週のように買った。そこに塩分が含まれていて、猫には良くないなんて知らなかった。昔は猫に削り節は常識だったのに、無知って怖いなあ。

 ノンちゃんがいなくなっても、しばらく癖が抜けなかった。売り場の前を通るたびに「削り節まだあったっけ?」と考えた。そして「もう買わなくていいんだ」と思い出し、寂しさと小さな解放感を同時に味わう。でもそれは一瞬で、義実家に買わなきゃいけない物あったかな、と現実に向かう。

 似た感覚を、義両親がともに施設や病院に移ったときにも感じた。自宅にいたころは、食材や日用品の多くはヘルパーさんに買い物してもらったけれど、義母の嗜好品やパッドは近所にないので私が届けた。

大人用の尿取りパッドはかさばって重い。自転車で行く時でも1パックしか買えなかった。自宅用のトイレットペーパー等を買うと自転車に乗せきれない。2世帯分の買い物は結構力仕事だった。あのころはいつも「自転車だから重くても大丈夫ですよ」と言っていたけれど、今の体力ではきつかったかも知れない。

 義実家のための買い物が不要になった時も、何度もスーパーで寂しさと解放感を味わった。もう義両親は自宅には戻れない。あの家で一緒に過ごす時間は終わってしまった、という寂しさと。もう自分の家のものだけ買えばいいんだ、軽くて助かった・・・という感覚。

 現実の忙しさは精神的な助けにもなるらしい。いつだって、生きている者を優先する必要があるから。

そして、時間や体力に余裕が出たころに、悲しみがぶり返したりする。その時には、楽しかった記憶をたくさん取り出して、泣いたり笑ったりすればいい。

私はブログを始めたおかげで、義両親とノンちゃんのことを穏やかにたくさん思い出せる。