いつか愛せる

DVのその後のことなど

役割から解放される寂しさ

 いつものスーパーでレジ待ちの行列に並び、ふと目の前のペットフードのコーナーに目がいった。義実家の愛猫ノンちゃんが生きていたころ、ここでもよく買った。大袋のカリカリと、レトルトのウエットタイプと、削り節も。あとトイレ用の砂も。

           

 あ、ノンちゃんが食べていたカリカリはこれだ。銀のスプーンのおさかなづくし。でも微妙に袋のデザインが違う。どんどんマイナーチェンジするんだなあ。

レトルトの方は種類が多すぎてもうわからない。義母がいつも「ノンちゃん、スープのご飯よ」と言っていたのはどれだろう。ノンちゃんはチキンでなくて魚好みだった。

 ノンちゃんの食欲が落ちてから「削り節なら食べてくれるの」と言われて、毎週のように買った。そこに塩分が含まれていて、猫には良くないなんて知らなかった。昔は猫に削り節は常識だったのに、無知って怖いなあ。

 ノンちゃんがいなくなっても、しばらく癖が抜けなかった。売り場の前を通るたびに「削り節まだあったっけ?」と考えた。そして「もう買わなくていいんだ」と思い出し、寂しさと小さな解放感を同時に味わう。でもそれは一瞬で、義実家に買わなきゃいけない物あったかな、と現実に向かう。

 似た感覚を、義両親がともに施設や病院に移ったときにも感じた。自宅にいたころは、食材や日用品の多くはヘルパーさんに買い物してもらったけれど、義母の嗜好品やパッドは近所にないので私が届けた。

大人用の尿取りパッドはかさばって重い。自転車で行く時でも1パックしか買えなかった。自宅用のトイレットペーパー等を買うと自転車に乗せきれない。2世帯分の買い物は結構力仕事だった。あのころはいつも「自転車だから重くても大丈夫ですよ」と言っていたけれど、今の体力ではきつかったかも知れない。

 義実家のための買い物が不要になった時も、何度もスーパーで寂しさと解放感を味わった。もう義両親は自宅には戻れない。あの家で一緒に過ごす時間は終わってしまった、という寂しさと。もう自分の家のものだけ買えばいいんだ、軽くて助かった・・・という感覚。

 現実の忙しさは精神的な助けにもなるらしい。いつだって、生きている者を優先する必要があるから。

そして、時間や体力に余裕が出たころに、悲しみがぶり返したりする。その時には、楽しかった記憶をたくさん取り出して、泣いたり笑ったりすればいい。

私はブログを始めたおかげで、義両親とノンちゃんのことを穏やかにたくさん思い出せる。