いつか愛せる

DVのその後のことなど

義父と義母の最後の対面

 たまたま同じ病院に入院していた義両親。義父は車椅子で転び検査のための入院だったので、もともと不具合はないのに先のことが決まらず数ヶ月いた。

先に入院していた義母は急激に悪化し、療養型の病院への転院が決まった。その間に今後の介護費用のため、義実家の売却をすすめた。家族全員の生活が激変する数ヶ月だった。

この話の続き ↓ 

 

 2018年の8月25日だった。私は疲れと寝不足で早起きできず、準備が残っているのに9時ごろ起きた。夫も「なるべく一緒に行く」と言っていたけれどやはり起きない。

ひとりでまず実家へ行き、義父の入居施設に持っていくものを再チェック。飾っておけるものを少しだけ持とうと思い、居合い切り6段の賞状を選んだ。剣道の賞状も同じ額縁の下に忍ばせた。他に、義父の父(絵描き兼書道家)が義父の干支を描いたという小さな竜の絵。

今選ばない物はいずれ解体業者によってすべて破棄される。そんな大切な物を私が選んでいいのかと思うけれど、迷っている暇もない。

 一度自宅に戻って夫と昼食をとり、昼過ぎにまたひとりで病院へ。先に義母の病室へ行くと、痰の吸引をやっているところだった。ずいぶん苦しそうな音。

しばらく待つと義母はひどく怒っていた。「乱暴」「ここにいたら殺されちゃう」「骨を折られた」と痛がっている。骨を折られるはずはないと思ったけれど、義母はずっと疲労骨折に気付いてもらえず苦しんだ経緯がある。あながち妄想とは言えなかったかも知れない。私は痛がる義母の胸に手をおいて祈っていたけれど収まる様子はなかった。

 

 相変わらず支払いや手続きは煩雑で多岐にわたる。病院内を走り回ってやっと義父のところに行くと、看護師さんが着替えをすませてくれていた。声をかけて起こす。

「お義父さんは今日退院だから、お義母さんに会いに行きましょう」

 車椅子で義父を義母の病室へ。これがふたりが会える最後かも知れないと思ったし、実際に最後となった。義父はほとんど何も言わない。義母は義父に気付いているのかいないのか、痛い痛いと言い続けている。私は最後なのにとハラハラする。

 義父は義母の手前の袖がめくれているのを直してあげただけで、あとは黙って俯いた。私は義母の胸をさすりながら、義父が入る施設のことや、義母の転院先が決まったことを話した。残念ながら義父と同じ所には、もう少し動けるようにならないと入れないということも伝えた。でも義母から言葉はない。

             

 仕方なくそろそろ行きますねと促すと、義父は最後に義母の手をとった。

「また一緒に生活できるといいな」と言った。私はグッときてふたりの手の上から自分の手を置いた。これが義両親の別れ。

 何てタイミングの悪い別れだったろう。義母が苦しむ姿を見るだけだった。今、思い出すと少しばかり病院を恨みたい気持ちになる。吸引する看護師さんの技術が未熟だったのか、それとも雑に扱われたのかはわからない。

かつてリハビリ病院にいた時のように、私たちがもっと頻繁に病院へ行けていれば。義母の状態を把握した対応をどんどん病院に要求していれば、もっとマシだったのかも知れない。病院の対応は、家族の口うるささに比例する部分があると思う。

 後日、義父はこの時のことを「あんな姿は見たくなかった」と言った。私は義父を義母に会わせたことを責められているように感じてしまい、なおさら辛かった。

それでもやはり会ってもらったことは後悔していない。久しく意思や感情が見えずほとんど眠っているばかりだった義父から、義母を思うことばを聞けた。施設でか天国でかはわからないけれど、必ずまたふたりは一緒に暮らせると思った。義父がそう望んで言葉にしたから。