いつか愛せる

DVのその後のことなど

本が読めないこと/読めるようになること

 暴力を想起させる内容の本を読めないことは、当事者によく起きる現象らしい。もちろん映像もNG。私は自分が回復を始めた時期に数々のDVや虐待に関する本を読んだ。その時点で読めない本は無く「自分にはその現象は起きない。私は丈夫な方なのだろう」と思っていた。運営していた掲示板でも常連さんから話題に出たことがある。

「おすすめしていただいた本、途中で読めなくなっちゃったんです。ごめんなさい」

「いえいえ。あの本でも読めなくなっちゃいましたかぁ、残念」

「あの本でも? え、え? 本、読めなくていいんですか?!」

そんなやり取りをした。そういうことがあると知っていれば心配しなくてすむ。

 自分の体験談である本を出版した少し後のこと。私はDV情報ウォッチャーで本もチェックしていたから、図書館に入った本をすぐ読んだ。「ドメスティック・バイオレンス女性150人の証言」。私の関心は回復する方法だったが、当時出てくるのはDVを解説する本や逃げ方や離婚のための情報ばかりだった。

 その本は相談員が150人の当事者から聞き取った体験が綴られている。150人分だからひとりひとりの内容は短い。数人分読んだところで妙に気持ちがざわざわしてきた。おかしい。何だろう。さらに続きを読もうしたが、なぜかビクッとしてページをめくれなくなった。

 その日の体調か、何が理由かわからない。本の当事者に同調したのとも微妙に違う。それなら悲しみや怒りに震えたはずだが、どういうわけか怖かった。私にも読めない現象が起きた。悔しいが本を閉じて棚に戻した。気を紛らわせるため軽い本を読んでから帰宅したと思う。

 

 読めない本に出会って1〜2年後くらいだろうか。図書館で同じ本を読み直した。思った通り、もうあのぞわぞわする恐怖には襲われなかった。でもすでに全部読みたいと思えない。あの本が必要なのは私ではなく研究者や支援者を目指す人、あるいはDVを知らない人。そんな風に私の感覚は変化した。

 ずっと前なら150人の被害体験1つ1つに引き込まれたろう。でも私はすでに普通の人と同じように、客観的な「情報」として読めてしまった。そしてその変化に罪悪感のようなものを持った。大変な思いをした人たちを、過去の自分を、蔑ろにしたような気がする。

 本を読むときだけでなく掲示板でも「いつまで共感していられるだろう」と思い始めた。被害や痛みの話でなく、回復する方法を話し合いたくて仕方ない。かつては前を向きたくても出来なかったのに、今度は前ばかりを向きたい。私は被害当事者でなくなりつつあった。

 きっと回復したら、読んだ瞬間に否応なく同調してしまうあの過敏さを手放すことになる。その方が楽に生きられるに違いない。でもそれは共感できなくなるということなのか? 自分を取り戻すということは、被害者であった自分を失うことなのか。少し混乱する。

 だけど私は被害者のまま生きるのでなく楽になりたかった。とにかくこの経験は何かに生かそう。苦労しただけで終わるなんて真っ平だ。経験とは失うことでなく何かを得ることのはずだ。回復しても私の記憶は消えない。あまりの苦しさに全部消したいと願ったこともあるが、すでにそうは思わない。私は記憶を生かすことが出来るはずだと思った。

 もし当事者が目の前に現れたら、そのときは情報でなく人間として向き合えればいい。私は自分の記憶を取り出して仲間のように向き合える。記憶は出来事だけでなくその時の感情、痛み、音や匂い、周囲の状況、自分の感性で受けたすべてだ。私は一時的に当事者に戻り、その人の話を理解できる。だからDVの辛い記憶は、普段はふたのついた記憶の箱にしまっておいていい。

 そんなことを書いていたら、夫に素朴な質問をされた。

「ふたのついた箱に入れた記憶は情報とは違うの? 自分は過去の辛いことを思い出しても過去と同じ感情にはならないけど」

なるほどそういう人もいるのだと思った。では私が箱に入れたのはトラウマ記憶というやつだろう。通常の辛いこととは別で、思い出すことで恐怖が増強されたりパニック障害を起こしたりするという記憶。

 ならばこう考えよう。私はトラウマ記憶が入った箱のふたを閉じたまま生活できるし、ふたが開くきっかけに遭遇しても、中身が飛び出す前に自分で閉じられる。読めない本やテレビから離れた時と同じだが、今はあの程度のきっかけでは開かない。きっかけになりそうな事柄は情報として認識している。

 もし当事者と話すことがあれば、そのふたを少しだけ開く。開閉する主体は私自身だ。そのとき私は感情的になるだろうし、普段とは少し違う自分が出てくると思う。過去についての文章を書くときもそうだった。でも自分が「ここまでだ」と思う範囲でコントロールすればいい。それが出来れば私はすでに被害者ではなく、かつ被害者だった自分を消すことにもならない。それが私の回復だと思った。