いつか愛せる

DVのその後のことなど

介護される側の自尊心

 一人前の大人として長年生きた人が、要介護になることを受け入れるのは簡単ではないと思う。

最初の試練は、要介護認定をうけること。入院などのきっかけが無いと「年寄扱いするな」と憤る人が多いのではないか。

義父母の場合は、義母の入院をきっかけに義父と一緒に地域包括支援センターへ行き、ドサクサに紛れて義父も認定をうけてもらえた。

 

 必要事項のひとつは主治医が書く所見。つまり病院にかかっていない人は認定自体を受けられないはず。もうひとつは、役所から来る人に実際に本人と会ってもらうこと。

 人間のサガなのか、面談の際にどうしても見栄を張りたくなる。例えば10m位しか歩けなくても「歩くのは問題ありません」と言ったり、「〇〇をやっているんです」と、ほとんどしたことのないことを言ったり。

 出来ないことを出来ると言ってしまうと、受けられる支援が減る。その辺を夫が義父に言い含めていたが、あまり効果は無かった。見栄だけでなく「なるべく自分でやろう」とか「なるべく世話をかけないように」との意識もあるかも知れない。

 ただあちらも慣れているので、家族がこっそり「本当は出来ないんです」と言うと「大体わかりますよ」とおっしゃる。

どうも私の感触では、精神の不具合は考慮されにくい気がする。大まかな基準が公表されているだけで、認定後になぜその結果が出たのかは教えてもらえない。

 

 義母は多分、ありのままを出してくれたと思う。精神の方は最後までしっかりしていた。

入院中に腹をくくるような思いを沢山したのではないだろうか。芋を洗うような流れ作業の入浴介助をうけたし、自力でお通じが出来なくて毎日出してもらっていた。

 後に、夫は義母に確認した。腸の具合が悪く「癌かも知れない」と医師から言われ、でも調べて手術するとしても耐えられる体力があるかどうか···となったとき。

義母は「もう痛いことも恥ずかしいこともしたくない」と答えた。だから夫は検査をさせなかった。そして転院先には積極的な治療をしない病院を勧められ、従った。

 

 義母はリハビリ病院にいるときには、生きるために自尊心をねじ伏せたと思う。苦しく恥ずかしい思いに耐えた。そして一度は復活して自宅に戻れたし、目標の「自分でお味噌汁を作る」ことも実行した。

 一方、後に「痛いことも恥ずかしいこともしたくない」と言った時のことは、どう考えればいいだろう。今度は自尊心を優先したのだろうか。

 

 違う。自尊心の働かせ方が変わった···のかな。

きっとそう。リハビリ病院にいた時の義母は、生きて回復することを選んだ。ねじ伏せてなどいない。恥ずかしさに耐えたのも自尊心があるからこそ。

 そして治療しないことを選んだ時も。今度は回復できないと思ったから、治療に耐える選択はしなかった。それは自分のためだけでなく、家族の負担を考慮した決断だったかも知れない。

 だからきっと、自尊心をねじ伏せたり消したりしたことなどない。最後まできちんと働かせ続けたと思う。