いつか愛せる

DVのその後のことなど

抗議は被害者意識からではないと思う

 昨日の記事との関連で考えた。バービーの映画は日本では公開前だけれど、すでに世界で大ヒット中。

私は、原爆をポップなネタにされた日本の被害者意識について考えた。何度も書いている通り、私は「被害者」「加害者」という呼び方が嫌いなので、日本を「被害者」とは呼ばない。かつて原爆の被害をうけた経験があるだけ。この前提で、今の日本人がこの件に抗議していることを、どう捉えればいいのかな。

 私はこれを「被害者意識からではない」と考える。少なくとも私に見える範囲の情報では、被害者意識を感じない。どうしてだろう。

相手を罰しようとはしていない、わかってもらいたいだけだから。謝罪を期待したのは、今回の原爆ネタのミームに公式アカウントまでが乗っかったことに対してでだけ。過去の原爆投下についてではない。日本側の願いは「わかってほしい」だけだと思う。

            

 かつて被爆体験者の方の手記を読んだことがある。私は彼らの強い思いを、やはり「わかってほしい」だと捉えた。彼らも最初は復讐心に燃えたかも知れない。でも長い長い時をかけて、その思いを乗り越えて来られた。

必ずしも全員一致とは断言できないけれど、彼らの願いは二度とあの悲劇が繰り返されないこと。そのために、大変な労苦をして真実を伝えて来られた。

 私は原爆資料館にも靖国神社にも行ったことがないけれど、行った人の感想から想像がつく。多分、伝えているのは「日本の被害」ではなく「戦争というもの」のこと。

戦争の愚かさを淡々と伝え、あるいは犠牲者を静かに悼むことしかしていないと思う。自国を正当化するための場所でもない。自虐も糾弾も無い。

映画「ほたるの墓」も「この世界の片隅に」もそんな作品だと思う。

 だって日本は、とっくに戦争の傷みから立ち直っているから(今また経済的に衰退しているけれど)被害を訴える必要が無い。

立ち直るのにどれほどの苦難があり時間がかかったかも、わざわざ言わない。戦争をした双方が苦難に遭ったことも、考慮できる。

 あの世代の人たちが、恨みや憎しみを後の世代に引き継がなかったことに、私は敬意を表する。それはGHQらの日本のあしらいが上手かったからだけのはずがない。多くの日本人が自ら平和を選んだからだと思う。

だから、日本だけしか知らない原子爆弾の真実を、ただわかってほしい。悲劇を繰り返さないために。

本当はもっと適切な表現があるかも知れないけれど、私の言葉だと「わかってほしい」になる。被害をうけた経験から発した思いだから。

 私自身が「わかってほしい」にこだわった経緯は↓こちら

 

 私の意識はやはりそっち方面(DVからの回復)に向かうんだなあ、と思った。それは私らしくて別にいいけれど「思考の範囲を広げすぎじゃないの」「個人と国を同じ物差しで考えられるの?」とも思う。

でも身近にアカデミックな前例があった。「当事者は嘘をつく」の著者の小松原織香さんは、自身が性暴力被害の記憶で苦しんでいる時に、哲学者ジャック·デリダの赦しについての言及に救いを見出した。デリダが言及している赦しは、個人ではなくおもに民族紛争などを想定しているらしい。

 国のことは個人のことでもあって逆もまた然り。と私は勝手に納得した。(この記事も書くのに頭と精神を使いすぎて💦疲れた···)