いつか愛せる

DVのその後のことなど

「今週のお題」苦手だったもの_人格否定

 私は人を否定することが嫌いなので、当然、否定されることは苦手。以前に書いた記事はこちら ↓

 今はありがたいことに、直接否定される機会はまったく無い。職場以外であまり他人と関わらないせいかな。

ただネットのニュース等を読んで、たまに不愉快になる。下品で😫ひっどいなーと思う文章にも出会う。それは私個人でなく、私にも当てはまる属性への批判だったり。あるいは無関係でも、人が人が否定する様が不快

 では私はどういうことを否定と感じる? 

以前にも書いたように、勝手に決めつけられること。私を私ではない者にされるから。それに無視されることも否定に近い。私が存在しないことにされるから。

 もし部分的な否定をするなら「ここが良いけど、ここが駄目」というようなフォローがあるべき。単に「駄目」だと、存在すべての否定に聞こえる。それは「死ね」とか「消えろ」と同じ。人間の存在を否定する権利は、人間には無いはず

(黄色のカーネーション花言葉は「侮辱」「軽視」「嫉妬」「美」「友情」)

             

 次に、なぜ苦手になった? 

元々の性質も少しある。私は子どものころ大人しくて甘えるのが苦手で、可愛くない子だった。何かやらかして母に怒られると、許してもらえるまで何時間も黙ってその場でただ待った。その時に「無視された」と感じたトラウマがあるのかな?

 そして決定付けたのはやはりDVの経験。書ききれないので、事例をひとつだけ。たったひと言で強烈に傷ついた言葉がある。それは「わきまえろ」。

今考えても、命令形だと嫌だな~~~ 自分でわきまえるならば立派だけど。

意味はわかっても、小説やドラマでしか聞いたことが無い。例えば、織田信長のような殿様が、無礼を働いた家臣に言うようなセリフ。命令形で言われたことで、ものすごく見下され人格否定されたと感じた。

 ただ、今考えると「わきまえろ」はきっと夫が子どものころ父親に言われた言葉だろうと思える。義父は武道を嗜み、若いころかなり厳しくて怖かったらしい。だからそういう言葉を使いそう。(義父は私の前では好々爺だったけれど)

 今でも私は否定されることは苦手かも知れない。でも、もう昔の私ほど大きなダメージは受けないと思う。他人に「駄目だ」と言われても「私は私だしなあ」と思える。

もし誰かに「わきまえろ」なんて言われたら、相手が失礼なのだと考えそう。状況が許せば「何をですか?」「私はあなたの家臣ですか?」って突っ込むかも知れない。