いつか愛せる

DVのその後のことなど

義母の終末期の始まり

 義母にグァバジュースを口にしてもらった翌日は、医師との面談があった。私は会社を早退して夫と行くことになっていた。夫の心身の状態は悪く、予定を遅らせてもらって辛うじて病院へ行けた。↓ この話の翌日のこと。

 

 覚悟を決めたせいか夫は早口でどんどん話す。「母はもう十分生きてやるべきことをやったと思う」と。もしかしたら、早く話さないと迷ってしまうからだったかもしれない。

医師はそれを聞いて療養型の施設をすすめてきた。新たな治療はせず点滴や酸素吸入程度しかしない病院のこと。義母は腹水があるので胃ろうは出来ず、首からの点滴で安定しているとのこと。夫は了承して施設の選択は相談員さんにお願いした。通いやすい近所の総合病院のことを聞いてみたが、そこは療養型ではないので駄目らしかった。

 話し終えて義母に会いにいく。すると点滴を抜こうとしてしまうので手袋をつけられていた。義母には認知症の症状はなかったけれど、点滴を付けている部分が痒くなってしまうらしい。でも私たちがいる間は手袋をはずしてもらえた。こういう拘束の可能性があることは、事前に同意書を書かされていた。

 私はひどく細くなった義母の腕をさすってみたが、それでも掻こうとする。もっと元気だったころに、何度か義母の肩を揉んだことを思い出す。義母はいつも「すごく気持ちいいわ」と言いながら5分もすると「疲れるでしょもういいわよ」と私を気遣った。もうああいう時間は持てないのか。

そこに白色ワセリンが置いてあったので、今度はそれを塗ってさすった。痒みが収まるかも知れない。すると義母はほんのひと時だけ寝息になった。夫は義父の様子を見に行っていた。

           

 その日、訪問看護でお世話になっていた医師が様子を見に来てくれたが、義母は無視した。誰だかわからないのかも知れないし、その医師を嫌っていたのかも知れない。

そして私たちに何か訴えようとしたのか妄想なのか、義母から「警察」という言葉が出たが、よく聞き取れなかった。あのころの義母にとって、病院は敵だらけだったのだろうか。食べたいのに何も食べさせてもらえない。邪魔な管をつけられて、手袋で手の自由も奪われる。

 それは監禁されて徐々に餓死させられる感覚になってもおかしくない。不安だったろうと今さら思う。当時の私は少しばかり自分の感情を閉じていた気がする。あまりにも目の前の課題は多いのに、感傷に浸ればきっと動けなくなるから。

もし私の感情が普段通りだったら、義母を目の前にして硬直したかも知れないと思う。苦しみを取ってあげられなければ、見ている方も苦しい。それは夫も同様だっただろうか。私たちには出来ることしか出来ない。

 義母は私たちに一生懸命「焼きおにぎり食べたい」と言った。過去には義母が望むものを持って行ったことは何度もあった。でも今はジュースすら飲み込めないのだから、もちろん無理だ。本人もわかっていただろうとは思う。私は「ごっくんって飲めるようになってからにしてください」と言うしかなかった。

義母の声がうがいのような状態になったので「苦しいですか?」と聞いて、看護師さんに痰の吸引をしてもらったがこれも結構つらい。夫が優しい口調で「口をあけろ」と促した。

 そうしてその日は病院を後にした。てっきり家に帰るのかと思ったら、夫は「実家へ行く」と言う。その夜もまた、記憶に残る夜になった。