いつか愛せる

DVのその後のことなど

「人生めちゃくちゃ」と言われたくない

 J事務所に関するニュースが続く。「再発防止特別チーム」は前社長による性加害を認定し、現社長の辞任など再発防止策を提言したらしい。それは本当に良かった。

以前にこの件について書いた記事はこちら ↓

 上の記事の中で書いた、私と夫の知人(←もう長らく会っていない)で元歌手だった男性に迫ったのは、やはりJ氏だったのだと確信した。もしそのとき我慢していたら、彼がフォー⚪︎ーブスの一員として北⚪︎次になったはず。業界から離れてしばらく苦労したそうだけれど、精神に大きな傷を負わずに済んで幸い。

カモミール花言葉は、”逆境で生まれる力”)

           

 関連記事を読んでふと気になったのが、被害をうけた人の「人生がめちゃくちゃに」なるという一文。それは当事者自身が言った言葉でしょうから、記事に文句は言わない。でもあまりタイトルには使ってほしくないと思った。

性加害は相手の人生をめちゃくちゃにするほど重い罪だ、と言いたいのはわかる。実際に被害の前と後では人生が大きく変わってしまう。

 でも、一生めちゃくちゃでいないといけないの? 私はそこに反発する。性被害をうけた人の人生はめちゃくちゃだと決めつけられるのは迷惑。むしろ二次加害。

(この辺↑は、まさに私が嫌いで苦手なこと → 決めつけ=人格否定)

 被害をうけても人生はそこで終わらない。生きていくために、受けた傷と向き合うのはかなり困難。それでも、めちゃくちゃのままでいる義務などない。

 性被害をうけた過去を隠す人が多い理由のひとつは「性被害をうけた人=人生めちゃくちゃ」だと判断されるからではないの?

古臭い価値観で「傷物」のラベルを貼られたり、精神の弱った人、扱い難い人、隙のある人、薄幸な人・・・そういったイメージの総称が「人生めちゃくちゃ」だと思う。

ニュースの見出しに使われる事で読む人にそういうイメージを植え付ける、という配慮があってほしい。

被害に遭った人が読めば、なおさら打ち明けにくくなるかも知れない。イメージにとらわれて「自分の人生はもう終わりだ」と悲観的になるかも知れない。

 たまたまどこかで読んだニュースでは、キャスターが非常に注意深いコメントをしていて感心した。(その記事がどれかわからなくなって残念!)

その人は、同じ意味でも「人生を変えられてしまう」と表現した。その表現の方がいい。「変える」には良いも悪いも含まれるから。一度めちゃくちゃになった後、良い方向に変わる人生はきっとあるから。

 大事なことなのでもう一度。「人生めちゃくちゃにされた」と本人が表現するのはいい。その時点での当事者の思いは誰も否定できない。

でも第三者がそれを言ってしまうのは間違い。他者の人生を「めちゃくちゃ」と評するのは・・・・・どう考えても😡す~~~ごく失礼。