いつか愛せる

DVのその後のことなど

「人は変われる」ことを思い出した

 自分の原点を思い出した一昨日(7月4日)の記事の続き。「人を否定することが嫌い」の他にもうひとつ、かつて私がよく書いていたのは「人は変われる」ということだった。ただし命懸けになるほど本気なら、という条件つき。

「人は変わらない」という決めつけは私にとってNGワード。自分を「変われない」と思ってしまうことはままあるので、そんなことないよと言いたくなる。

一方、他者を指して「あの人は変われない」と口にする人って、一体何者なんだろう?と思う。「あの人は今は変わる気はなさそうだ」というならわかるけれど。

               

 昔の私が頻繁に聞いたり読んだりしたのは「加害者は変わらない」というDV支援者の言葉。何しろ公共の支援機関は離婚に導く以外の手段を持たなかった。(今はどうだか知らないけれどあまり変わっていないと思う)

変わる気の無い人は、もちろんその時点では変わらないことに私も同意する。でも絶対に変わらないと言い聞かせて逃げさせ離婚させるのは、無責任ではないのかな。

 エビデンスは何も無いものの、決めつけの理由かも知れないことを書いた記事が下記。実績のカウントが必要な役所ならではの事情かも知れない。

 何度か書いているように、私は「被害者」「加害者」という呼び方も嫌い。加害者だから変わる必要があるのではなくて、変わる必要がある対象は「人」。私自身も大いに変わる必要があった。

それは決して「欠点があるから被害を受けた」という意味ではなく、単純に「自分がボロボロになっちゃった」という現実があったから。それ以上傷つかないように状況を変えたかったし、ボロボロでなくなるよう自分を回復させたかった。

 だから、当時の私は必死に本を読んだり考えたり祈ったりして、行動もした。おかげで価値観のいくつかが変わったことは私の成長。でも油断すると元に戻ってしまう危機感はある。人は変われるけれど、維持するのは変わるのと同じくらい難しいと思う。

 だから「自分は生まれ変わった」とドヤ顔で主張する人のことは、ちょっと信用し難い。そういう人やそうではない人を知った経験はこちら。

 何歳になっても成長を続けたいと思っていたのに、😅生活に埋もれて忘れている時期が何年も続いた。一生懸命生活しているだけでも、学ぶことは多いはず。でもまた立ち止まって考える季節が来たのかも知れないと思った。