今回この「当事者」は、主にDV被害の当事者を指す。私は元当事者のひとりに過ぎず皆の代弁はできないし、人間は常に変化もする。しかも私の経験から20年たち世の中も変化した。
「DV被害者とはどんな人か」の説明をwebのあちこちで見る。私はその被害者のステレオタイプにずっと違和感を持ってきた。よく言えば同情的で優しい表現をされている。悪く言えばひとりの人間扱いされていない。
だからDV被害者(私は被害者・加害者という言葉は好きではないけれど)について書いてみる。当事者以外が「扱いにくい当事者」を語れば間違いなく批判されるので、支援職や研究職の人は表立っては言えない。でも私は無名の元当事者なので風当たりは少ない。
自戒も込めて、被害者は扱いにくい。そうなる理由は性格でなく状況にある。被害者になる人の性格が扱いにくいのでなく、追いつめられた人の姿が似ていてかつ扱いにくい。
例えば被害者である自覚を持ってくれず、危険なのに動こうとしない場合。よく加害者にマインドコントロールされると言われるが、自覚しない理由は他にもある。あなたは被害者になりたいか想像してほしい。認めたくないから無意識にでも否認したくなる。
災害時に逃げようとしない正常性バイアスにも似ている。逃げたくない理由なら100個でもあげられる。逃げるのはこれまでの人生すべて捨てるのに等しいので、強要するなら責任を持ってほしい。
また自分の状況をうまく説明できない。日々消耗して客観的になる余裕がない。支援者に何か言われても脳に取り入れるスペースが足りない。(足りない記憶_参照)
さらに頭の中で緊急コールが頻繁に鳴るので落ち着けない。支援者の話を聞きながら「早く帰らないと怒られる」と考えているかも知れない。
よく案内される被害者のステレオタイプは、この辺をイメージしていると思う。あとは表向きの情報には無く、現場の人間しか知らないかも知れない。
同居家族が多ければ様相はどんどん複雑になる。支配したりされたり、誰が加害者で被害者かわからない場合もあるらしい。支援する人も混乱するだろうし、当事者もその複雑さの中でがんじがらめ。
支援につながった後の変化もある。支援者に依存する人もいれば、エネルギーがあって反発する人もいる。かなり古い文献の引用だが、DV支援の講座で語られたという内容がこれ。
「被害者というのは加害者へ向けるべき怒りを加害者に向けられないので、支援者を加害者と同一視して支援者に不当な怒りを向け、支援者を憎むことが多い」
今はこう考える人が居ないことを切に願う。確かに、閉じ込めていた感情を取り戻す時期に怒りは出やすい。(怒り_参照)
その時の被害者は手負いの獣に似ているので、心してくださいとしか言えない。私もネットで見た被害者の言葉に「怖いなあ」と感じたことがあるし、被害者と加害者の逆転が起きた事例も知っている。それでも、怒りをぶつけられた支援者は引き金が自分の無理解にあると知ってほしい。
優位な立場にある支援者が「加害者と同一視された」なら、それは支援者が支配しようとした時。極めて優しく子ども扱いする、という支配もある。支援者が善意でやったことに反発されたと言うなら、それは加害者も使う言い訳なので「この人もか」と怒りが倍増してしまう。
支援者の批判になってしまったが、もちろん助けられて感謝している人はあると思う。被害者の扱いにくさの話を続けよう。
被害を自覚した後は自己憐憫が強くなることがある。シェルター等で他のサバイバー(被害者を尊重する呼び方)と知り合えば、仲間はいちいち説明しなくても理解し合えるので同志に思える。対して思いがすんなり通じない支援者は遠い存在に見える。それは過酷な環境の自分達が基準になるから。(ありふれた大きな不幸_参照)
そんな時は支援者と信頼関係を作るのが難しいかも知れない。
よく聞く被害者のイメージは間違ってはいないが、それは一定期間のほんの一面のみを指す。被害に留まるのをやめようとするのと同時に、その人はステレオタイプから脱し始める。立場は被害者のまま人間に戻ると言っていい。(被害者という言葉は個別の人間をあらわさない)。多分そのころ怒りの感情を取り戻すので、扱いにくさの種類が変わる。
私はずっと、当時者について語られた数々の情報に「私の何がわかるというのか」と感じ続けた。型にはめられることに苛立ってきた。まだまだうまく表現できないけれど、今後もDVカテゴリーでまた続きを書いてみる。