いつか愛せる

DVのその後のことなど

ありふれた大きな不幸

 私がDVの真只中にいたころ、自分は特殊な境遇にいて特別不幸だと思っていた。それはもう世界一不幸な気がするほど。(自助グループ①_参照↓)https://manaasami.hatenablog.com/entry/2022/09/09/180857

 前を向こうとあがき「世の中には餓死する人もいるのに私は生きている」とか、「両親の介護で長年苦労した友人もいる」等と考えたことはある。それでも自分への憐れみは消えず、早く死にたいと思うこともあった。そんな私の価値観が時間をかけて変わったことを伝えたい。

 世の中には無数の不幸があり、大きな不幸にあう人も少なくない。例えば虐待をうけた人、大切な人を亡くした人、病や怪我で体の自由を失った人、犯罪の被害に遭った人。あるいは子ども時代に両親が離婚することも、その時点では天地がひっくり返るような不幸に感じたりするかも知れない。そんな人生観が変わるような経験をした人が、誰の近くにも居ると思う。珍しくないことなのに、本人の辛さは計り知れない。経験者の数と苦しみの大きさは無関係だ。

 最近になって考えた。多くの人が、人生のどこかで崖っぷちを歩く経験をする。生きるか死ぬかぎりぎりの所を通る。私のDV経験もまた特別ではなく、世の中にたくさんある不幸のひとつ。私は特別に不運というわけではなかった。そう納得するのに20年くらいかかったなあ。長い人生でありふれた不幸のひとつに遭遇するくらい仕方ない、そんなこともあるさと思った。私は運命に意地悪されたのでなく不公平と感じたのも気のせいだ。不幸な出来事の後で幸せになる人はいくらでもいるし、その人自身が不幸であり続ける必要はまったくない。

 そんなことを思うほどDVが過去になり、回復中の私の価値観がかなり変だったことを思い出す。多分「いつか愛せる」を出版した2002年前後くらいで、暴力はほぼ無くなっていた時期だ。私はDV情報ウォッチャーになり毎晩ネット上をさすらっていた。どこかで、夫の不倫を暴き多額の財産と慰謝料を勝ち取って離婚した女性の体験を読んだ。既婚女性であれば裏切られた女性に同情し、かつ仕返しにすっきりしそうな成功話だ。

 なのにまったく共感できなかった。私は夫の浮気も経験済みでシンパシーを感じてもいいはずなのに、ただ白けて思った。

「浮気だけだよね。他はまともに生活出来たんだよね。それで大金ゲットできてよかったね」

呆れるほどひねくれているが、その時の正直な感想だ。

 私はその時、自分の掲示板で出会ったDV当事者を思い出していた。暴力を振るい借金を繰り返す夫と離婚するために借金を背負った人までいた。そうしないと別れられないから、慰謝料をもらうどころか有責配偶者である相手の負債を背負った。離婚できただけでありがたいと言う人も珍しくはない。

 それゆえ当時の私には、復讐を成功させた人がお気楽に見えてしまった。幸いその失礼な感想を伝えることはなかったし、自分の感性が変だという自覚もあった。そのときの私の感性は一般から大きくずれていた。離婚で大金を得た女性を誰かと比較する必要はないのに、私はどうしても自分と比較しあるいは仲間と比較していた。私は離婚していないし本来は比較の対象にもならない。まるで不幸さを競っていたようなものだ。

 もし今の私が同じ体験談を読んだらどう感じるだろう。伴侶に浮気されることは。ましてやそれで離婚に至るのは大きな不幸だ。きっとそれもよくある大きな不幸だと考える。ただし「ありふれた」という表現は、自分に対して言うときの小さな自戒だ。他者の苦しみに対しては失礼になるので使うことはない。