ずっと前に考えたDVからの回復の要件は2つあった。まずは自分自身の心身の回復。次に、相手との関係の回復。別れていないならこの二つが必要。
私の経験はDVだったけれど、多くの虐待に共通するのではないかと想像する。
その考えに至る前から。当時は10年以上教会に通っていたし、暴力の中にいるときさえ「夫をゆるさなくては」と思っていた。「赦し」は教会の教えの中でも重要なファクター。
だから祈って祈って何度もチャレンジした。そしてわかった。
「ある程度自分が癒されてからでないと、取り組むことすら不可能」
心身がボロボロで生きているのがやっとの時に、ゆるさねばと頭でいくら思っても感情はついてこない。本当に求めているのはゆるすより先に自分が癒されること。思考より感情がはるかに強かった。
そんなチャレンジをしていた時の私は以下↓のような状態。どう考えても無茶。
ちなみにゆるす必要が無いと思ったことは一度もない。信仰の有無にかかわらず、ゆるすことで楽になれると思ったから。自分のためであって相手のためではなし。そもそも離婚しないなら、恨みながらの同居などそれ自体が拷問。
だから本人の回復の中に「自分を癒す」こと「相手をゆるす」ことがあると結論づけた。
そして、どの程度癒せたらゆるすことに取り掛かれるものだろう、と漠然と思った。
そんな風に何年か生きているうちに「やっとゆるせたなあ」と気付くタイミングがある。だけど「どの程度癒されてからゆるす?」なんてことを考える間もなく、次の試練が始まってここ10年ほど忘れていた・・・
私にとって「自分が癒されること」と「夫をゆるせること」は、同時進行でしか起きえなかった。(念のため、夫に癒してもらってゆるせたのではなく自己完結。その辺りのことも書こうと思いつつ遅筆で進まない)
今は思う。ゆるせることは自分の癒しの条件のひとつ。ゆるせないならばまだ癒やされてはいないということ。
私の癒しについて言えば、記憶は消えないからトラウマも完全には無くならないけれど、すでに自分でコントロールできる。だからもう傷は癒えた。そしてゆるせたし、ゆるすと伝えたことで関係も修復された。
癒されることとゆるすことは別々には出来ない、というのが今の私の感覚。
ところで。癒しのイメージ画像を検索したら、子猫や子犬の画像がずら~っと並んでとろけそうになった・・・