DVの渦中から、なぜ夫を「ゆるそう」「ゆるさなくては」と思っていたのか。そこから書いてみようかな。あくまでも現在の私が当時の私を分析するので、リアルタイムで考えていたわけではなし。
(念のため被害当事者の方へ。暴力の描写はいっさい書きませんが、当時の私の精神状態は書いています。フラッシュバックする可能性のある方は、この記事の中ほどは飛ばしてくださいませ)
あのころは10年以上、非常にまじめに教会に通い、祈り、聖書を読んだ。
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 (ルカによる福音書/ 6章 37節)
ゆるすことは、クリスチャンには当然のこと。(←出来るかどうかは別問題として)だから「ゆるし」に関する説教は何度聞いたかわからないし、書籍もたくさん読んだ。
そういえば「ミッションバラバ」のメンバーの牧師さんに会いに行ったっけ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミッション・バラバ
元ヤクザでDVも乗り越えた牧師ご夫妻。牧師さんに「裁いてはいけませんよ」と言われたのを覚えている。それはすでにわかっていた。本当はその方法を奥様に聞いてみたかったんだけどな。
私は夫を裁くことは、していなかったかも知れない。でもそれは、あらゆることから目を背けて感情を閉じていたから。惨めすぎる現状を認識すると自分が壊れてしまう。暴力の中では心を殺さないと生きていられない。
そんな状態でいる時に、ゆるしを考えるのは無駄なこと。そもそも自分が夫を恨み憎んでいることさえ、あまり自覚がない。だから「ゆるさなくては」という思いも、知識として漠然と持っていただけ。
本気で取り組む羽目になったのは、私が回復に向かい感情を取り戻してから。閉じ込めていた感情がすごい勢いであふれてきた時、舌切りスズメのお話を思い出した。大きなつづらを開けてドロドロと魑魅魍魎や虫や蛇が飛び出したかのよう。毎日出続けて止まらず、どれだけ入っているのかと驚きあきれた。
だから私が本当にゆるすことに取り組んだのは、その後のこと。そしてゆるす理由は前にも書いた。「自分を楽にするため」自分のためでなければ絶対に不可能だと思う。
本日はこの辺で、お口直しの風景写真。自転車で30分程の池に行き散策してきた。休日なのになぜか人が少ない。
以前に来た時より水嵩が上がっている。そのためか亀が甲羅干しできる石が沈んでしまい、亀が見えない。かわりにカモが増えた気がする。
夫「この風景なら江ノ島まで行かなくていいんじゃね?」
私「ちょっと似てるけど聞こえる鳥の声が違う。ここはトンビの声がない」
木漏れ日が綺麗だった。写真は逆光気味だなあ。
右下に写っているのは私が吹いたシャボン玉。100均で買えるおもちゃ付きの優れもの。
白いのはアヒルなのかカモなのか。
シャボン玉に付いていたおもちゃのアヒルを揺らすと「ガアガア」鳴く。そのガアガアで、毛繕いしていた子はこちらを向いてくれたし、寝ている子もいったん目を開けた。さらに、奥の水辺ではガアガア反応してくる子がいた。仲間だと思ってくれてうれしい😊